小説 川崎サイト

 

奥の欠片

 

 今まで見えなかったものが見える。しかし、見えなかった頃の方がよかったのかもしれない。
 より見えるのだが、大した違いがなかったりする。逆に見えなかった時代でも、その欠片は見えていた。それが拡大され、詳細になるが、それほど変わらない。意味としては似たようなもの。
 見えていないことで想像で補ったりする。それが見えてしまってもさらにまだ奥があり、まだ隠されている。
 それさえも見えるようになると、もう想像する必要はないのだが、それがそのものの全てではなく、さらにその奥がある。
 奥は何処までも続くわけではないが、その先はもう別のものになる。つまり最初に見ていたものとは意味が違ってくるし、もの、そのものが逆に分からなくなるほど。
 片鱗や欠片、何となく分かる程度だが、そこは日常範囲内で、いつもよく見ているものの範囲内。
 一歩踏み込むと、日常からも少し離れ、別に専門的な世界というわけではないが、何の気なしに見ていたものとは違ってくる。
 奥に入り込むほどそうなる。より詳しく分かるのだが、部分的になり、全体が視界から消えるようなもの。
 ぐっと引けば見えるのだが、全体を見ながら、詳細も見たいというのがある。これは視覚だけの話ではない。
 見て見ぬ振りをするのではなく、もっと見たいのだが、実際には見えない。だからよく見ているので、見ていないや、見ないのとは違う。
 見えないものを見る。それはできないが、想像はできる。その一つ奥にあるものは他にも類があり、それを知っているため。おそらく似たようなものがあるだろうと。
 だから隠れて見えていなくても、想像は付くということだ。おそらく大きな間違いはないが、想像なので、そのものの実際ではない。だから見えないものはずっと見えない。代わりのものを当てはめる程度。
 見るというのはきりがない。何処まで見えればいいのかは、程度による。一番奥まで行った場合、何もなかったりする。だから見ていないのと同じ。
 これは奥の奥の果てまで行くと、もう付いて来れないのだろう。感覚が。
 程々の見え方。これは日常からは離れていない。その範囲内だ。
 ここで見えているものだけでも充分だったりする。たまに見えないはずのもの、欠片や片鱗が見えることもあるが、その程度でいいだろう。
 
   了
 
 

  
 
 


2023年9月13日

 

小説 川崎サイト