小説 川崎サイト

 

野僧

 

 野草のような野僧。野原にいる。寺にはいない。定住する場所もない。野の人。そして田舎にいる。できるだけ辺鄙な場所にしばらくいる。付いてくる弟子もいるし、来ることが分かっているのを知った人もやってくる。
 野僧と自ら言っている。粗末な僧衣で装飾性はなく、風呂敷には旅道具などが入っている。何処にでもあるような適当な布。これは風呂敷よりも丈夫そうだが、広げればただの一枚布で、紐も付いていない。だから風呂敷だといってもいいが、上等なものではない。
 この人、悟ったようで、それを聞きに来る人が絶えない。中には興味本位の人もいるが、弟子もいる。
 ただ、野を彷徨っているような師匠なので、遠くへ行きすぎると、代わりの弟子、おそらくその周辺の人だろう。弟子といっても話を聞きたいという熱心な人に過ぎないが。
 悟ったのは、その野僧だけ。僧侶は修行で悟ることができるが、それは一瞬だけ。だから一度悟った人は何度でも悟ることができるが、一瞬。
 あっと言う瞬間だけ。すぐに戻る。これは戻らないと、僧侶の務めができなくなるためと言われている。
 だが、その野僧、悟ったままを維持しているらしい。そして悟ったことを弟子に話す。しかし、それで悟った弟子は一人もいないが、話を聞いているときは気分がいいらしい。一寸した酔い心地。
 これで、この師匠に人気が出た。下手なところに遊びに行くより、この師匠の話を聞いている方が楽しいのだ。実際に笑える話もある。
 このあたり、落語の先祖のような感じだが、悟るという真面目な目的があるので、遊びではない。しかし、悟るのは遊びかもしれないが。
 本当に悟ろうと思い、師匠の話を聞きに来る人もいるが、それこそが笑い話のように見えてきて、途中で悟ることをやめるようだ。だから、ろくな弟子はいない。
 ただ、弟子は固定しておらず、常連もいるが、常に付き従っているわけではない。
 武士で言えば野武士のような坊さんで、それを生業にしているようだが、決して村や町ではおこなわない。これは縄張りがあるため、入り込むと揉めるようだ。
 この野僧、本当に悟ったのかどうかは疑わしい。ただの世捨て人が、ブツクサ話しているようなものかもしれない。
 
   了

 


2023年10月14日

 

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