小説 川崎サイト

 

心道

 

 城下外れの廃寺だったところが道場になっている。道の場、ここは心道の道場。精神修養の学校のようなものだが、私塾ではなく、道場と言い張っている。
 道場主は元僧侶で、その廃寺の本山と縁があるため、寺を借りている。廃寺といっても廃墟ではなく、寺を廃した無人の寺という程度。
 壊れたわけではない。寺はそのまま残っている。空き寺だが、檀家が減り、成り立たなくなったので閉めたようなもの。
 何を教えているのかは分からないが門弟は多い。一寸変わったところで、気楽さがある。堅苦しさがない。
 道場主は精神修養はできていないようで、落ち着きのない人で、徳も感じられない。かなり俗っぽい。
 弟子は武家の子息たちで、月謝も安いので、親も通わせている。別棟に寺子屋のようなのもあり、ここは百姓でも通えるが、別の人がやっている。この先生は若いが、道場主よりも人格があるようだ。真面目でしっかりとした人。心道の先生もこの人がやれば似合うのだが。
 さて、心道の教えとは何だろう。弟子たちもよく分からない。道場主も分からないらしい。それなら誰も分からない教えを語っていることになるのだが、実際は心の有り様を語っている。これが大部分だ。
 これは心のありがちなことを話しているだけで、だからどうすればいいのかというところへは持って行かない。また、持って行き場所がないのだろう。
 果たしてこれが精神修養になるのかどうかは分からない。優しい先生ではないが、厳しい先生ではない。心の有り様を綿々と語っているだけ。
 これは法話に近いのだが、道場主が作ったものがほとんど。実話もあるが、それでは足りないので、創作ものが多い。ことわざを勝手に作っているようなもの。
 その中には笑い話、滑稽談も多く含まれている。これは受けが良い。
 道場主は元僧侶。しかし嘘の多い人で、坊主としては一寸という感じで、還俗。俗の世界の俗人に戻ったわけだが、それで生き生きとし、心道の道場をを開いた。
 元々こういうインチキ臭いことが合っていたのだろう。
 心の道。そんなものはない。だから、いくらでも嘘がつける。ただそれは方便として通る。
 人はこうあるべきだという教えではなく、人の心とはこんなものだということだろう。そのため説教臭さがない。
 弟子たちは修養ではなく、息抜きで来ているようだ。
 
   了


2023年11月13日

 

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