平々凡々
期待していたものがそうではなかった場合、それを期待していたのかもしれない。大したことはないと。
その期待は期待しないことを期待するとなるのだが、これは妙だ。
事柄にもよるが、どうせ期待しても無理という考えがある場合、それが当たると、期待通りとなる。本当はそんなものは期待していないのだが、期待外れを恐れて、振り方を変えるのかもしれない。
都合の悪いことは期待しない。期待はやはりいいことに関するはず。期待して待つなどは悪いことを待つことではないようだし。
本当は望んでいることを期待しているのだが、そうならないことが何となく分かっている場合、もし望んでいるものが出てくれば勘が狂う。理屈が違う。
これは本人の勝手な論理のようなものだが、そこまで行かなくても最近の様子や過去の様子から察して、おそらく期待はできないと決めつけている。
期待していないのに、望むものが来た場合、これは嬉しいことだが、逆に困ることもある。
そのケースとは別に、何の情報もなく、何となく選んだものでは期待も何もない。期待できるだけの材料はないが、その範囲内にある可能性だけはある。そしてあらぬ期待などないので、逆に気楽だ。
どうせ平凡なものだろうという予測があり、その平凡さでも良かろうと望むため。
平凡以下では困るが、まずまずのものや事柄なら、淡々とこなすだろう。または眺めるとか。
ただ、テンションは低い。何処にテンションがあるのかは分からないが、素直に接している。それは予備知識がないほどその状態になれると言うよりもそのままのものをそのままの気持ちで接するためだろうか。
前回はどうだったのかと比較するものはない。しかし、他の別のものと比べることはできる。似たようなパターンだと、何処かに吸収される。
良くなく悪くもないという結果になっても、期待が少ないので、そんなものかと思うだけ。
しかし、意外と期待やこだわりのないものの方が気楽で、ゆったりとしていたりする。それを安定感とか、安全とかではないが、無難と言うことでは安心して接することができる。
ここでもし凡々としたものではなく、かなり良いものだった場合、下手に期待していたものよりも落差があり、予想外の良さなので、効果が高い。そのもの自体は大したことはなくても、わりとやるではないかとなる。
こだわりのものとか、特別なものとか、評判が高く、良いものとされているものは期待できるが、結構疲れする。
平凡なものに目を向ける。これはその境地に立たないとできないが。
了
2023年12月9日