小説 川崎サイト

 

失敗

 

 失敗を繰り返すと諦めることがある。
 何度も何度もしくじると、これは無理なのではないかと。
 いくらやっても土台無理。土台がそのようにできていないか、もう土台が劣化し、悪くなり、できなくなっているか。
 その場合、いくらやってもまさに無理。その無理を承知でやるとすれば、よほど欲しいものか、やらないといけないようなものか、または習慣的なことなのかは分からないが、その過程がいいのかもしれない。
 または一つの目的が消えるのが惜しいとかもある。結果はお粗末で、失敗だが、あるところまでは何とか行く場合、その途中まででもいいのではないか。このあたりだけでもそれなりに目的を果たしたような気になったりする。
 同じように失敗し、成し遂げらなかったにしても、程度というのがある。いいところまで行ったとか、そこまでは行かず、もっと早い時点で終わっていたとか。これはもう自己新記録が目的になるのかもしれない。
 同じ失敗でも満足度が違う。失敗には変わりがないのだが、よくやった場合、それなりの満足感はある。ただ、大きく見ると不満なのだが、その不満レベルが低い。
 そして毎回失敗していると、失敗慣れし、成功など考えていなかったりする。どうせまた失敗するのだからと。
 そして失敗の仕方にこだわったりする。少しましな失敗もあれば、手も足も出ない失敗もある。どちらにしてもそれなりに健闘し頑張れば同じ失敗でも違ってくる。ただし失敗には変わりはないのだから、受け取り方の問題だろう。
 失敗すると後遺症とか副作用のようなものが出ることがある。それの軽減策だろうか。成功するのが一番いいし、それ以外は本当は不満だろう。
 失敗に対するダメージ軽減策として、やり方がまずかったとか、目標が悪かったとか、いろいろといいわけができる。
 そのおかげで、絶好の条件に持ち込むような仕掛けを作ったりする。これも根本的に無理なことを成そうとしているのなら、無駄なこと。
 そうやってできることならいいのだが、無理を承知の場合は、これはもう別のことになる。
 別に失敗を楽しむわけではないが、成功しないことが分かっていれば安心だったりする。安心して失敗できる。失敗して当然なので。
 ただ、何処かで万が一があり、何かの拍子で成功する可能性もある。ゼロではない。
 それよりも、それをやっていることが好きなのかもしれない。結果を得るのが目的だが、それだけではない道中もある。
 
   了


 


2023年12月25日

 

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