小説 川崎サイト

 

最適

 

 強い目とか弱い目とかは程度のことだが、程よい程度がある。だから程悪い程度もある。
 これを適度と言っているが、最適なところだろう。
 その場に適しているとか、その時や時間に適しているとか。
 また強い目の程度が良いときもあり、弱い目もいいときがある。しかしそのうち強すぎるとか、弱すぎるとかになり、中間あたりに合わせるだろう。
 そこが適度なところ、一番妥当で適当なところ。程よいところとなるが、これもそこに居続けると強い目が欲しくなったりする。弱い目も。
 だから程良さは決まっていない。固定していない。状況によって変わる。
 ただ、それはこちら側の変化ではなく、外からもたらされる変化もある。これはどうにもならないのだが、少し球の受け方を変えれば何とかなる。それは自然にやっているだろう。易しいものと易くないものに対したときの態度のように。
 易しいものばかりやっていると少し歯ごたえのある難しいものをやってみたくなる。難しいものばかりやっているとその逆。
 中間の程よいところに常にいるのはいいのだが、そればかりでは飽きてくる。つまり変化が欲しいのだ。違う感覚や違う感情を使ってみたい。
 毎日飽きるほど食べているご飯でも、柔らかい目や硬い目に水加減したり、米の銘柄を変えるようなこともある。同じ米のご飯で、それはいつもの水加減でいつもの銘柄の米でもいいのだが。
 電気炊飯器を使わないで、普通の鍋で炊いたり、それなりの土鍋や、本格的な釜で炊いたいたりすることもできる。これは失敗しやすい。電気釜に比べて。
 しかし毎回炊き具合を楽しめる。同じように炊いているつもりで、火加減を誤ったりとか、焦がしてしまったりとか、いろいろ出てくる。変化が。
 正解はあるのだが、そうならないから楽しいのだろう。
 飯ごう炊さんで、適当に炊いたご飯が意外とおいしかったりするのも、一寸新鮮なためだろう。本当は失敗して焦がしていても。または水が多すぎて粥に近くても。
 程よいところが一番いいのだが、一寸外したいというのもある。これは無理にではなく。
 あまり代わり映えのしない変化の少ないものでも、微妙な違いがある。注意深く見ないと分からない程度。だから程よいものの中にも、変化がある。
 変化の強いものや弱いものの方が分かりやすいが、変化の少ない中程のものの中にも変化はある。微妙で気付きにくいが。
 些細なことに目を向けると切りがないが、小事にも大事が潜んでいる。
 
   了


 


2024年2月5日

 

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