小説 川崎サイト

 

経験談

川崎ゆきお



 寒い場所から暖かい場所へ行くとほっとする。
 これは温度が影響している。
 暖かさは気持ちを和ませてくれる。
 酒田老人は現役を引退し、心穏やかに暮らしていた。
「温室のような場所が理想だね」
「温室育ちではいけないのではないですか」
「まあ、そうだが、年をとると寒い場所には行きたくなくなる。単純なことだよ。冷えると辛いからだよ」
「世間の冷たい風を受けてこそ育つのではないでしょうか」
「何が?」
「人間がです」
「ああ、教育ねえ。でも、あたしのような年になると、もう育つ必要はないんだよ。減る一方でね」
「でも若者には試練が必要でしょう」
「経験かね」
「はい」
「まあ、経験は年を重ねるとついてくるよ」
「それが温室だけの暮らしでは、浅い経験になりませんか」
「穏やかに暮らし続けるのも経験だよ。毎日穏やかな生活を続けておったという経験だよ。これは忙しく活動しておる人間にはできない経験だ」
「それでは活かすべき経験が少なくないですか?」
「いろいろな経験をするのもよいし、あまりしないのもいい」
「多くの経験をし、場数を踏んだ人間のほうが有利ではありませんか」
「経験することと、ものをよく知っておるのとは別じゃ」
「でも、経験することで知恵を得るのではありませんか」
「それも、ありましょうな。だが、それが先入観になり、頭が回らなくなることもあるぞ」
「つまり経験主義の落とし穴ですか?」
「その面も否定できぬのう」
「ご老人ほど経験を語るものではないのですか?」
「だから、こうして語っておるではないか」
「経験は少なくてもかまわないという経験談ですか?」
「だからじゃ、誰だって年を重ねると経験を重ねる」
「問題はその内容だと思うのですが」
「わしもいろいろとやって来たが、大して役立つような経験はなかったのう」
「体験から得た貴重な情報をお聞きしたかったのですが」
「奇麗事なら語りもするが、そればかりではないのでな。汚い面を省略すると、自慢話になってしまう。そこだけを取り出しても駄目なんじゃ。それでは正確に伝えておらんことになるでな」
「その汚い面を含めてお話ください」
「誰がそんな話やるかい」
 
   了


2007年01月14日

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