小説 川崎サイト

 

迷子ストリート

 

 思わぬところに思わぬものがある。
 思わぬところだがずっと思っていたものがあるといい感じだ。そこにあったのかと、それだけでも驚く。思わぬものがあった場合でも、何処かで思っていたのだろう。
 以前思っていたとかで、最近は忘れていたもの。思わぬ発見というのは、そうなるかもしれないと密かに思っているのかもしれない。
 しかし、あまり思っていないものと遭遇しても何とも思わない。そういうのがあるのだなと思う程度で、それ以下でも以上でもないので、チラッと見ただけですぐにスルーし、もうそれとの遭遇などはサッと忘れている。
 気に留めるようなことでも踏み込んでみようとは思わない方があっさりしていていい。そして気楽だ。
 何も思うことがないので、素直に見ているだけ。しかし、引っかかりがないので、あまり意味はないし、価値も感じない。だからスルー。
 だが、たまには興味のないものと付き合うのもいい。何が良くてそういうものが存在しているのかは、本人次第。
 きっと他の人や、何らかの関係で、それはあるのだろう。本人にとっては何でもないものだが、関わりのある人なら引っかかりがある。
 興味のないものは体重を乗せないで見ることができる。接することができる。それに興味も関係もないので、他のことを思いながら、見ていたりする。ただの目の置き場になってしまうが。
 しかし、本人ではないが、それに興味を持ちそうな人や関連性をそれなりに想像できる。きっとある人にとっては大事なことだとか、忌み嫌うものだとか、飯の種に関係するとか。
 探索というのは興味深い。何かを探しているのだが、探している最中がよかったりする。当然探し当てればもっといいが、思っていた探し物がこの程度かというのもあり、探し当てなかった方がよい場合もある。
 そういう探し物の経路とは別に、思わぬところでの遭遇の方が嬉しい。これは意外な場所にあったりするとなおさらだ。
 ただ、その場所へもう一度行くとなると道が分からない。探しているとき、道に迷い込み、そこへ出てしまったようなもので、もう一度同じところを通れといってもできなかったりする。
 偶然の遭遇で、探しているものに引っ張られたのかもしれない。それは神秘ごとだが、そうとしか言えないほどの偶発性もある。偶然なので再現できない。
 人もいろいろと計画を練って動いているのだが、案外行き当たりばったりな面もある。予定から離れてしまい、迷子になったようなものだが、その迷子状態でしか遭遇できないこともある。
 メインは本道にはなく、迷子道にあったりする。ここの繋がりはつぎはぎだらけになりそうだが。
 
   了

 


2024年3月24日

 

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