小説 川崎サイト

 

今村の今

 

 今村は日々同じことを繰り返している。時間が来ればそれをし、あれをする。だから時計を見れば、今、今村が何をやっている最中かが分かるだろう。
 ただ、そこまで今村の日常を知っている人はいない。一人暮らしなので、何処へ行ったとか、家の中で何をしていたのかなどが。
 ただ近所の人は少しは知っている。物音とか窓明かりでそれとなく分かるのだろう。この時間は今村はいるとか。
 また外に出るとき、その姿を見られることもある。戻ってくるときもだ。別に見張られているわけではないが、出るときと戻ってくる姿を同じ人が見たなら、何時間ぐらいの外出だったのか分かる。
 また袋でもぶら下げておれば、買いものに出ていたのかとなる。
 その時間がいつも同じなら、今村はその時間、家にいないことが分かる。ただ、近所の人なので、だからどうと言うことにはならない。重大な意味も発生しないだろう。情報としては薄いもの。
 そして今村は今日も昨日と同じようなことを繰り返し繰り返しやっているのだが、これは必要なことが多い。そうでない場合もあるが、やはり似たようなことを日々繰り返している。
 どちらにしても同じことをまたやっているので、飽きないものかと思われるのだが、案外そうではなく、毎回違いが出てくる。
 やっている意味は同じなのだが、感じ方が違う。ここでもうはっきりと同じことから外れる。やっていることは同じだが、その過程が違うし、気持ちも違う。
 また今日は疲れやすいとか、今日は思うようにどんどん進むとかの調子も毎回違う。ほぼ同じであっても、それをやっているときに思うことが違う。そのことを思うだけではなく、別のことも思う。その思いが毎回違う。
 一日前の今村と今日の今村も一寸違う。だから違う人がやっているわけではなく、状態はほぼ同じだが。
 体調の違いとか、その日の雰囲気。これは他のことからの影響で変わることが多い。当然それをやっているときの天気とかで変化する。
 同じ作業をしていても乾燥しているときと湿気ているときでは違うだろう。当然気温の違いで暑いとか寒いとか、丁度とか、これも日替わりだ。
 だから同じことを繰り返しているわけではなく、実は繰り返せないのだ。ただ意味としてみた場合、同じことをやっているのだが。
 その毎日の繰り返し事項。十年前とはがらりと変わっていたりする。やり続けていることもあるが新たに加わったものもある。それぞれその事情なり意味が変わったりしているのだが、そうなるようになったと言うことだ。
 その変わり目があるはずなのだが、今村はそんなことよりも、今を見ているのだろう。今やっていることにそれらが凝縮されている。
 
   了


 


2024年3月25日

 

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