何でもない
何でもないものは、やはり何でもないので興味も起こらないし、注意して見るようなこともなく、また好ましいとも悪いとも思わなかったりする。そのため何でもないものは無視して通る。
池田は、この何でもないものの中に何かあるのではないかと思うタイプ。何かありそうなものは他にもいろいろあるのだが、あえて何でもないものに注意を向ける。
これは無理に向けないと開かない。しかし何でもないものの扉が開いても、中は相変わらず何でもなさだけがある。
しかし、池田は粘る。何でもないもの自体には意味はないのだが、見出すことはできる。しかし何のとっかかりも引っかかりもないので、捉えようがない。また意味を構成しにくい。
ただ、そのものにはないが、他のものと比べての話。だから何かありげなものにはないものがある。それが何でもないという意味だ。だから何でもないものが生きるのはそこしかない。中身ではない。
そして池田はそれでくつろいだりできることを見出す。何でもないものなので、見ているだけでいい。しかも注意深くではなく、ぼんやりしながらでもいい。これこそ何でもないものの良さだろう。
何かありそうなものならぼんやりできない。その気になって調べたり考えたりするだろう。しかし、何でもないものはそんな手間はいらない。
するとそれは刺激の問題かと池田は考えた。刺激の少ない穏やかなもの。だが穏やかなものがいいのではなく、そんな特徴もないためだ。
凄いところに池田は入り込んだ。誰も見向きもしない何でもないものの探求。これは最初から無理なのだ。探求する必要もないことなので。
では、残るのは何か。それは何もないものなので何もしなくてもいいという程度。それなら最初から何もしない方がいい。
だが、何かしてしまうだろう。だからこそ何でもないものが必要。取り合えずそれと接せられるので、何かやっていることになる。実際には何もやっていない。やることがないため。
しかし、池田は何もないと思っているが、実は少しは何かがあるのだろう。何もないというようなものは最初からないので、見ることも触ることもできない。やはり何もないという状態で実際にあるのだろう。池田にとっては無関係なものだが、他の人にとっては何かあるものになるはず。
だから池田にとってだけ何でもない存在と言うことになる。それが池田にとりオアシスになるとすれば、何かあることだ。この場合ならオアシス。
何でもないものを見ていると安らぐ。これは池田から出ている。平穏な気持ちでいられる。そうなると、何でもなさが逆に生きてくる。だから決して何でもないものではない。
さて、池田の結論。それもまた何でもないようなことだ。
了
2024年3月29日