小説 川崎サイト

 

日常の奥

 

 日常の中に潜んでいる奥深いもの。そこまでは行く必要はないのだが、奥の奥が見えていることがある。
 そんなものは見る必要はないので、普段は見ていない。もっと目の前のことや違うことを思い浮かべたり。
 日常が崩れたとき、平常時でもチラチラと見えていたそれがもう隠されないで露骨に出てくる。日常とは皮一枚。紙一重というやつ。
 この紙切れ一切れだけでも、十分目隠しになっている。そっと手で紙切れを外すと、それがあるのだが、そんな行為はやる必要がないし、やろうとも思わない。
 ただ立ち止まって、じっと見ていると、気になりだす。当然、他にやることがなく、注意を引くようなものが周囲になければ、その紙一重の一重に注目する。これをめくれば何かあるはずだと。それだけの暇と余裕がなければできない。
 しかし、紙一重の向こう側に何かがあることを知っている。その紙、風でたまに動いて、隙間からあちら側が見えることがある。
 だからそういう穴のようなものが至る所にあることは知っている。それ以上進まないのは、だからどうだということではない。見ても仕方のないこと。そして日常には関係しない。
 見えているようで見えていない。感じているようで感じていない。だから存在などしないのと同じだが、何となく、そういうものが潜んでいることが分かる。
 これは何処で分かるのかは謎。かなり奥のシステムだろうか。認知できないが、それが五感の何処かに絡んで何となく分かる。
 また、そういうことも錯覚の一つかもしれない。ただの思い違いとか、妄想とか。
 火のないところから煙が立つようなもの。
 本当にリアルなもの。それは間接的にしか分からなかったりする。だから想像だが、少しは火の気があり煙も出ているのだろう。
 だが火の気とか煙とかも勘違いだったりする。だから幻想であり妄想。フィクション。ファンタジーでもいい。
 実体はむしろ見る側にあるのかもしれない。そう見えてしまうと言うことだ。
 ただ人によって見え方が全く違うのかというとそうでもない。やはり同じものを見ており、その感想も似たようなもの。
 ただ、意味としての捉え方が全く違っていたりするが、それを加えなければ、それほどかけ離れた見え方はしていない。視力の差程度。
 日常の中の一寸したものや、一寸したことにも実は何かが裏で動いているのかもしれないが、これも解釈の一つで、合っているのかどうかは分からない。
 具体性はないが、そういうのがありげに感じられるようなはみ出した感覚外のものが見え隠れしている風に感じられる。
 感じでは弱いが。
 
   了



2024年4月16日

 

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