小説 川崎サイト

 

常識

 

 世の中の常識が覆されると痛快な気分になる件もある。ずっと信じていたものが、実は違うと。
 しかし、本当に信じていたのだろうか。そう教えられ、それが普通になっているのだが、あまり実生活には関係のないことも多い。
 たとえば歴史的な新発見で、定説が覆った場合も、実生活に影響を及ばすようなことではなく、ただの知識だっりする。
 そして覆っており、定説が違っているのに、相変わらずそれを使っている人もいる。知らないのだ、覆ったことを、そして事実ではなかったことを。
 しかし、それを知る機会など永遠にないかもしれない。そういう話題に触れない限り。
 また、歴史的定説を覆した新説も、またいつかは違ってましたとなる可能性もある。仮説ではなく、事実だといってもその現場で見たわけではない。また動かぬ証拠が出たとしても、そのこと自体は興味深く、ミステリーの謎解きの鍵を得たような気になり、楽しめるのだが、それは常識が崩れることの痛快さがあるためだ。
 ただし、本人に都合の悪いものは別だが、かなり昔の話だと、定説が間違いで、実際はこうだったと判明しても、それだけのことで終わる。
 定説とはおそらくそうだろうと言うことで、違うのではないかという意見がないときだろう。つまり違見が。
 だから定説崩しは、その中身ではなく、崩れるときの感じがいい。真犯人が見つかる時の話の下りや、その謎解きで見えてくる再配置や、塗り替えが。
 トリックではないものの、これなら誰もが騙されるし、信用するだろうというのが崩されていく。ただ、本当に信用して信じているわけではなく、おそらく妥当という程度で、あくまでも説なのだ。
 ただ、その定説が崩れると面倒なことになる人もいるだろう。前提がなくなり、根拠が偽になるため。
 しかし、定説に慣れ親しみ、それが定着してしまうと、違うかもしれないとは思うものの、動かせないこともある。既成事実が積み上がりすぎ、もう変えられないのだ。
 まあ、本人とは関わりないものなら、どっちでもいい話だが、見方が変わるのは痛快だ。実はそうだったのかという壊れ方がやはり愉快。
 
   了


2024年4月20日

 

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