小説 川崎サイト

 

蜘蛛の糸

 

 たまには放置してみるのもいい。その気はなくても忘れていたり、必要ではなかったり、その用事や気持ちにならないことがあり、勝手に放置されてしまう。
 中には気になりながらも、そのままになっていることも多い。
 しかし、急に思い出したように放置していたものにアクセスすると、変化していたりする。これはそのものも多少は変化するが、ほとんど放置していたときと変わらない状態。
 しかし触れる側の変化が加わるのだろう。違ったものとして見えたりするし、新鮮に感じたりもする。これは久しぶりのためだろう。
 探し物の場合、その後、探さなかったとき、これはもう探してもないとそこで諦めたのだろう。その可能性もほとんどないので。
 たまに探してみるが、やはり見つからない。そこからは長い放置となる。もう探しに行かない。
 ところが、何かのついでに、それを思い出し、もしやと思ったわけではないが、一寸探していると、あるではないか。以前見つからなかったものが。
 さらに以前はそれほど丁寧に探していなかったので見落としもある。
 そういう例があることから、たまには探しに行った方がいい。しかし、これも毎回毎回見つからないとなると、やはり諦めてしまい、その後の探索はなくなる。
 これは物事によって違う。必要なものなら何としてでも探すのだが、放置タイプは放置しても構わない状態なので、真剣さがない。
 しかし、放置したものに目が行くのは何かのきっかけで、その放置ものを思い出したため。だから単独で思い立ったのではなく、ヒントがあるのだ。
 あるものを探していて、別のものを思い出し、そちらに切り替えるとかがそれだ。最初のきっかけとなった探し物の影響。連動しているかのように。
 つまり、成り行きで、放置していたものを思い出し、久しぶりに探してみようかと思う。これは物なら使ってみようと思う。使っていない重くて大きな鍋とか。
 繋がりということで勝手に繋がる。繋げようと思わなくても、ひっかかるし、糸でも伸びているように別のものと繋がる。連想ゲームのように。
 これはそれなりに自然だろう。自動的に勝手に繋がるのだから。
 それが放置タイプの事柄と繋がったとき、その糸をたぐり寄せたり、糸を持ち替えたりし、そちらに切り替えたりする。
 いずれも偶然に起こっているように見えるが、それなりの繋がりがある。因果の糸だ。
 ただ、地獄で上から下がっている蜘蛛の糸をたぐっても、すぐに切れるだろう。これで極楽へ登れるわけではない。天の人のただの冷やかしで、意地悪。これも地獄の責め苦の一つだったりしそうだ。
 偶然たぐった糸が必ずしもいい結果を生まないし、無駄な寄り道になり、がっかりすることもある。
 
   了


2024年5月4日

 

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