小説 川崎サイト

 

へのへの

 

 夜中、妙なものが歩いている。農夫のようだが、かなり粗末。つぎはぎだらけで、まだ破れていたり、ほころんでいるところもある。糸が垂れ下がり、それが揺れている。頭から手ぬぐいらしきものを被り、その両端を軽く顎の下で結んでいるが、顔のほとんどは見えている。
 これは見えていない方がよかったのかもしれない。暗闇では見えないだろうが、その夜は月明かりで、うっすらとながらも見える。
 その顔。見た者は何だろうかと最初は驚く。意味が分かるまで少し時間がかかるのか、唖然となる。
 このとき、何かに当てはめようとするのか、早く解釈したいのだが、手間取っている感じ。
 だから驚くというよりも、それ以前のこと。その正体が分かってから驚いても遅くはない。またそれが分からなければ驚きもしないだろう。
 夜中に農夫が町家を歩いているのは不思議ではない。何か用事があり、その帰りかもしれない。その農夫は町外れに向かっているので、村に戻るのだろう。それだけのことなら驚きはしない。
 さて、その顔、月明かりでも明快に、くっきりと分かる。それほどはっきりとした顔なのだ。まるで書いたように。
 そう、書いているとしか思えない。目が「の」で眉が「へ」だろう。鼻は「も」で口は「へ」。
 立体感はない。のっぺらぼうに書いたような顔。これは手ぬぐいの下にそういうの書いてぶら下げているのではないかと思えた。
 これなら、単純。しかしその顔は膨らみがあり、垂れ布に書いたものではない。たとえそうだとすれば、顔にピタリと巻き付けないと膨らみが出ないだろう。
 包帯でも顔に巻いて、その包帯に顔の絵が描かれているのだろうか。それならさらしに書いた方がぐるぐる巻かなくてもいいし、一枚で済む。
 要するにカカシだろう。だが二本足だし、腕も水平に伸ばしていない。それに歩いているのだから、これはカカシとは別物。
 夜中、人を驚かそうとしてそんななりをして歩いているのだろうか。
 その、へのへの農夫とすれ違っても、何も起こらない。すぐそこまで近づいているので、さらによく見えるが、遠くから見ていたのが拡大された程度で、細かい部分は同じ。最初から粗いのだ。線のような書き文字の絵なので。
 そして、への字の農夫は無反応なまま遠ざかり、その後、闇影に混ざって見えなくなる。
 江戸時代の不思議なことを記した本に出てくるが、それで、それがどうしたとか、それが何だったのかの解説はない。
 ただの創作だと思われるが、シンプルなだけに、解釈は自在。
 
   了


2024年5月7日

 

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