小説 川崎サイト

 

直感

 

 いつも通り行かないときは、それなりの変化を楽しめる。それはいつもの順番と違っていたりするのだが、やっていることは同じ。
 しかし順序が変わると雰囲気も変わる。いつもの繋がりで来ているわけではないので、一寸新鮮。逆に順番が狂うとぎこちなくなり、スムースに流れないこともある。
 いずれにしても変化は変化。そういうのは日常の中では至る所にある。前後を入れ替えるとか、少し飛んだものを先にするとか。
 それはそれなりの事情なりがあるためで、自発的ではない場合の方が多い。そのため、仕方なくやることもあるのだが、それでもやや新味がある。改めてやっていることを見たりするため。普段なら自動的に処理する程度のものでも。
 では自発的なこととは何だろう。これは気まぐれのようなもので、ふとやってみたいと思うこと。これには保証はない。
 軌道から逸れていたり、予定にはなかったりする。しかし、その場でふと思いついた気まぐれのようなものは、どこから来ているのだろう。
 ずっと退屈なものばかりやっていると、飽きてきて別のものをやりたくなる。これは気まぐれも入るが、そういう押し出しがある。退屈という。
 だから違うことをやりたいというのは自発的な軌道修正にも取れるが、そういうふっと思いついたものには理屈はなかったりする。気分的なものだ。
 この気分が自発に近い。気分が勝手に沸いたのだから、理由は問わず、そのことは直接感じとして来たのだろう。気持ち程度のものだが。
 これにさしたる理由がなければ、気まぐれとなるのだが、そのときほど自発性が高い。ダイレクトに来ているので。
 あとで思うと、あれが原因だったということもあるかもしれないが、それはあとで作ったお話かもしれない。辻褄が合うように。
 これをインスピレーション、直感と思うと、ゴミまでインスピレーションになり、何でもかんでも気の向くままやり放題になるが、すぐに違うことが分かるだろう。出鱈目だったと。
 本当の直感と偽物の直感があるはずで、本当の直感は何となく分かるものだ。頭で考えた直感ではなく。
 直感で決めるのは良いのだが、本当にそれが直感だろうか。直感だと思いたいためで、直感だからその選択に持ち込むといった手の込んだ芸かもしれない。
 まあ、分からなければ直感で選ぶというのもあるが、その直感も意外と妥当なものを選んでいたりする。安全な方を。
 だから経験とかから来たものではない閃きのようなものも、やはり経験や体質などが発生源のような気がする。ただ、プロセスが見えにくいだけなので、直感のように感じるだけ。
 しかし、直感や閃き、インスピレーションはやはりその人から発しているので、その人らしいものになるだろう。ただ、その人が経験していないか、または可能性としてある程度のものも含まれるので、そこがおいしいかもしれない。
 だが、直感には錯覚が付きもの。しかし錯覚かどうかは本人が判定することで、真意は分からない。
 または、真意など、なかったりしそうだが。
 
   了


2024年5月31日

 

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