道草
岩田は探し求めている。求道者ではないが、これというものが欲しい。しかし、これはすぐに見つかるが、しばらくすると、これではないように感じ、別のものを探す。
そして、これぞ求めていたものに近いと喜ぶが、近いのであって、それではない。まあ、それでもいいかと思うものの、やはり腑に落ちない箇所があり、納得できない。
ここは目をつぶり、諦めればいいのだが、別のも気になる。そちらに本物があるのではないかと。
しかしその本物とは岩田にとってのもので、岩田に合わなければ本物ではない。人の数だけ、本物が違っていて当然だが、それでも多くの人が、これは本物だと認めるものがある。
岩田はそういうのを見ると、そんなはずはないと、ひねくれた見方をする。多くから支持されていること自体が本物らしくないためだ。これは反対だろう。
ただ、そこに岩田にとっての本物という括りがあり、岩田が気に入らなければ、即座に本物ではなくなってしまう。
それで、あっちの水、こっちの水と、蛍のように飛び回っているのだが、いろいろな水を飲むことで、ほとんどの水を飲んでしまった。
しかし、まだまだ知られていない水もあり、また岩田が知らない水もある。だから、その探索はずっと続いている。これは本物との遭遇よりも、その探索の方が面白いのだろう。本物を掴んでしまえばハイそれまでよとなる。その後、暇で仕方がない。
目的を果たしてしまうと、そこで終わる。だから果たせない方がいい。ここも岩田はひねくれたことを考えるが、本当は本物など欲しくないのかもしれない。
そして岩田は薄々感じている。本物などこの世にはないのだと。
では、何処にあるのか。この世でなければあの世か、または全く別の世界なのか。
それは岩田の中にある世界かもしれない。本物かどうかなどを判定しているのは岩田自身。いろいろな意見に惑わされるが、そのうち、何かこれではないと感覚的に分かる。
その感覚が岩田の中にあるのだろう。だから岩田は本物を知っているのだ。ただ、それは何となくで、はっきりとしたものではない。
そして、その本物は岩田だけに通用する本物だろう。
だから手に入れなくても既に持っていることになるのだが、それは大したことではない。だから探し求めるようなことではない。
そう考えると、探索という道草が良いのかもしれない。探索中に見た道ばたの草とかが。
草がいいわけではない。
了
2024年6月2日