小説 川崎サイト

 

伏兵

 

「暑くて何ともなりませんねえ」
「だれてます。だれだれです」
「冷房は」
「クーラーは冷えるので、たまに扇風機を回します。団扇や扇子でもいいのですが、手を動かしているだけでも暑く感じます」
「それで、だれているのですね」
「夏場はそんなものです。だらっとしていると、意外と涼しいときがありますよ。窓からの風とかがね。しかし熱気も入ってくるのが難ですが」
「その状態でお仕事を頼むのは恐縮なのですが、頼まれてもらえませんか」
「内職ですか。まあ、団扇を動かす力程度の作業ならできますが」
「寄っていただきたいところがあるのです」
「外ですか」
「一寸出掛けてもらいたいのです。ここよりも涼しいかもしれませんよ。外の方が」
「そうですねえ。日陰とか木陰にいる方がいい感じです」
「散歩に出てくれというのではありません。一寸した交渉ごとです」
「それはまた暑苦しい話」
「あなたならできます。また、あなたにしかできません。あなたの言うことなら先方も聞くでしょう」
「誰ですかな」
「門口さんです」
「ああ、あれはわしの弟子だ」
「そうでしょ。師匠の言うことなら聞くはず。門口さんを説得できるのはあなただけです」
「そんなことはないでしょ」
「いえ、いろいろとやってみました。人も送りました。しかし駄目です」
「しかし弟子と言っても昔の話」
「今でも門人のはず」
「引き受けてもいいのですがね。それで、今、門口はどこにいるのですか」
「坂田です」
「それは遠い。それに坂の多い場所。これは出掛けたくない風景が見えます。汗をふきふき日陰もない炎天下の坂道を歩いているところを」
「しかし、ここよりも涼しいと思いますよ」
「そんなにここは暑いですか」
「冷房がないので、そう感じるだけかもしれませんが」
「じゃ、扇風機、回します」
「お願いします」
「坂田か、行くまでが大変じゃなあ。もう想像しただけでバテてきたわい」
「じゃ、引き受けていただけるのですね。お礼はたんまり用意させてもらいます」
「どんな礼かな」
「それは終わったあとで」
「それは楽しみじゃ。よし、引き受けた。行くぞ」
 この師匠、遠路坂田へ行き、弟子の門口と会おうとしたが、その途中の坂道でバテてしまったようだ。交渉ごとよりも、伏兵にやられた。
 
   了




2024年6月19日

 

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