小説 川崎サイト

 

夢と希望

川崎ゆきお



 一人暮らしの疋田老人は今日も丸坊主だ。髪の毛を短く切っているわけではない。今日もまた何も有意なことをしていないということだ。
 魚釣りに出掛け、一匹も釣れなかった状態に近い。
 魚釣りのボウズは、能動性がある。少なくとも釣りに出掛けたのだ。運悪く釣れなかっただけのことだが、疋田老人の丸坊主は、何も仕掛けないまま日が暮れた感じである。
 何かをやろうとしていたのだが、その何かが見つからない。実際には掃除や洗濯の用事がある。
 この用事は保守だ。メンテナンスだ。やって当たり前のことだ。そこに希望はない。
 その希望を疋田老人を求めていた。だが、それが何かが分からない。
 希望を持つことが希望だった。
 希望の中身はなんでもかまわない。希望が持てるものなら、それでよい。
 希望に囚われ、日常の用を怠っていた。
 夢と希望に満ちた日々。若いころからの目標であり、それに向かって進んでいた。
 それを唱えなくなったのは中年に入ってからだ。夢や希望がどんどん劣化した。今は実を付けるだけの膨らみもない。
 そして疋田老人は人生の終盤、再び夢と希望を思い出した。
 その言葉を思い出しただけではなく、再チャレンジする気運が漲った。
 これは老人の発作かもしれない。
 若いころできなかったことを、形だけでもよいからやって見ようと思い立ったのだ。
 しかし象徴はあっても具象がない。ネタがないのだ。
 疋田老人は夢と希望という病気が再発したことに気づき、何とか手当を施そうとした。
 そうでないと洗濯物がたまり部屋が汚れる一方だし、コンビニ弁当だけの食事になる。
 夢と希望を引っ込める作戦に出た。
 つまり、夢と希望を見ないようにするのを希望した。
 目先を変えてごまかす作戦に出た。
 しかし、出たと言っても、一歩も出ていない。作戦を練るだけで、アイデアが出たわけではない。
 結局何も出ないので、嫌々ながら洗濯を始めた。
 溜まっていたゴミも出した。
 それで一段落したのだが、すぐに物足りなく思い出す。何かが足りないのだ。
 それは夢と希望だと、また気づいた。
 
   了


2007年01月28日

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