木とベランダ
川崎ゆきお
いつも立っている木が、ある日突然消えていることがある。伐ったのか抜いたのかは分からないが、風景の中に入ってこない。
住宅地の中で、意外と高く、よく茂っていた。
風景が一変したわけではないが、木で隠れていた家屋が剥き出しとなった。
決して家屋が隠れていたわけではない。少し回り込めば見えてしまう。
しかし、その木がなくなると全体が見えてしまうようになった。
そしてその家屋のある敷地が平面的になった。
木は塀と家屋の間に植わっていた。それが奥行きを出していた。
盛岡は不思議な光景でも見るように、じっとその家を見ていた。
洗濯物を干すためのベランダが剥き出しになっている。それが珍しいわけではない。ベランダがあることは木があった時から承知している。
そのベランダに人がいるのだ。椅子に腰掛けているのかもしれない。首から上だけが見える。
二階のベランダから下の風景を眺めているのだろう。老婆だ。
盛岡はその老婆を見たのは初めてだ。木がなくなったことで、老婆が見えてしまったわけではない。
木がなくなったことで、注視したためだ。いつもは木も見ていない。
視界には入っているのだが、変化がない限り注目しない。
木がなくなったことが注意を喚起した。
盛岡はこの家の家族構成を知らないが、近所なので、顔ぐらいは合わしている。
盛岡より年嵩の初老の男が主人だ。奥さんの顔も知っている。子供はこの家にはいないのか、見たことはない。
そして老婆もだ。
あの老婆は、主人の母親だろう。年老いて足腰が弱り、表に出る機会がないのだろう。
木があってもベランダを下から見ることはできる。その時も、今のように首だけ出して下を見ていたに違いない。
盛岡が長く立ち止まっているため、主人が出てきた。
「あの木ですか」
「伐られたのですか」
「すっきりしましたでしょ」
「でも…」
「緑が多い方がいいのは分かりますよ。でもあの木は前の持ち主が植えたものでね。私の趣味じゃないんですよ」
「ああ、そうなんですか」
盛岡はベランダを見た。
首だけの老婆は消えていた。
了
2008年02月19日