弱きの虫
川崎ゆきお
松島は松虫とあだ名されていた。ニックネームである。
虫がついている。松島に虫がついているわけではない。あだ名に虫という語はついているのだ。
この虫の意は「弱気の虫」だ。
すぐに弱音を吐くため、弱虫の虫を松島につけると松虫になる。
このあだ名は、勤続十年の中堅社員になってからだ。
名付けたのは上司である。
松島は松虫と呼ばれ屈辱を感じた。だが、それはしばらくのことで、思い起こせば、それほど強い人間ではなく、どちらかといえば弱い人間かもしれないと自覚はあった。
当たっていないわけではないが、弱虫の逆側である強虫はない。虫そのものが弱々しいのだ。
いずれも人の目から見た強弱だろう。
それより虫扱いされることに、腹立ったが、それもしばらくのことだった。
いつの間にか大事な仕事は松虫には任せられない、となり。補佐の仕事が増えた。
このままでは優秀な社員ではなくなり、幹部社員への道は消える。
それに対し松島は、汚名返上のチャンスを窺わなかった。強気に出る強い気力がないのだ。
上司は松島をかっていた。部下を育てるつもりだった。松島に欠けているのは強引さだ。それを身につけさせるため、反感をかうようなあだ名を付けたのだ。
しかし、数年経過しても、松島は汚名返上の強気を発揮しなかった。
上司は失敗した。
松島は自分は弱虫なので、弱々しくてもかまわないのではないかと思い返し、そこから楽になったようだ。
そしてますます弱気になっていった。
松島は決して弱いだけの人間ではない。だが強気に出ると、松島らしく思われなくなってしまった。
その後、上司が転勤した。
後輩が室長になり、役付きとなった。
同僚も移動し、見渡せば松島が一番の古手になっていた。
もう、松島を松虫と呼び社員はいなくなった。
あの上司は出世し、その後退社して事業を起こすが、ひっくりかえった。
松島は平社員のままだが、最近は長老の風格が出てきた。
若手社員から長老と呼ばれるようになった。
松島は真っ白なヤギ髭を控えめにのばしている。
定年前には白ヤギと呼ばれるかもしれない。
了
2008年02月26日