痛いだけ
川崎ゆきお
「大丈夫やあらへんがな」 警官は倒れている老人の腕を引っ張り上げた。 「痛い痛い。もっとそっとしてくれ。あんた力強すぎるんや」 もう一人の警官が転倒した自転車を調べている。 「壊れてないやろなあ」 警官は自転車を起こし、ペダルを回す。 「ああ無事みたいやなあ」 「どこか痛いところありませんか」 「あんたが掴んだ腕が痛いがな。抜けるかと思うたで」 老人は飛び出して来た幼児を交わすため、ハンドルを切り過ぎ、転倒した。 体を張っての回避だった。 幼児は先程からワーワー泣いている。 通報したのは若い母親だった。 幼児は無傷だが、老人は転倒したとき、自転車のどこかに当たったのか、右の太ももを打撲し、左の臑が擦りむけていた。 「わしの前方不注意か?」 若い母親は幼児を抱きかかえ、老人を睨みつけている。 「被害者はわしとちがうんか?」 警官は即答しない。 「誰もわしに救急車呼んでくれへんのんか」 「転倒事故ですね。まあ、自転車で、一人で転んだということで……」 警官がぼそりと言う。 「そやけで、あのガキが飛び出さへんかったら、わしは転ぶこともなかったし、怪我することもなかったんやぞ」 「まだ、小さい子なので」 「痛い目したんはわしだけかい」 「あの子も、びっくりしてショックだったかも」 「坊や」 老人に呼びかけられた幼児は、さらに声高に泣き出した。 若い母親は子供を抱きしめながら老人を悪者のように、さらに睨んだ。 老人の顔色が変わるのを警官は見逃さなかった。 「幼児には良い悪いは分からないですからね。通りに出るときは手を繋いでやって下さいね」 警官は老人にもよく聞こえるように母親に注意を与えた。 「わしはもう、行ってええんか」 「はいどうぞ」 母親は幼児をあやし続け、去り行く老人を見ていない。 老人は、太ももに痛みを覚えながら、ペダルをこいだ。 これぐらいの打撲や擦り傷は何度も経験しており、二三日で治ることを知っていた。 しかし、身を挺して子供を守った事に対し、一言、礼が欲しかった。 了 2005年9月12日 |