穴子あんかけ
川崎ゆきお
屋敷の屋根瓦を雨が濡らす。鍾馗さんも濡れて黒光りしている。
ビニール傘の小男が門の勝手戸を開け、邸内に入ってくる。
小男は老人が可愛がっている探偵だ。
小男は案内も請わず、中庭を通り過ぎ、老人のいる離れへと渡る。
老人は暗い部屋でじっとしている。
「電気をつけましょうか」
「まだ、昼間じゃよ」
「御機嫌はいかがですか」
「まあまあだ」
「それはなにより」
老人は、その後、沈黙する。いつもなら次々と話しかけてくるはずなのだが。
「何か?」
「ああ」
「事件でも」
「そうじゃない」
「はい」
「昨日のう…」
「はい」
「いや、つまらぬ話じゃ」
「おっしゃってください」
「そうか」
老人の視線は手にしている般若の面にある。
それを見つめながら語り出した。
「昨日、気晴らしで駅前の蕎麦屋へ行ってきた」
「はい」
「もう閉店前なのか、客は一人もおらなんだ」
「はい」
「扉を開けるといきなり二人の老人が目に入った。調理場とレジの店員だ。わしが入るまで、何やら話し込んでいたのかもしれんのう」
「はい」
「わしは穴子のあんかけを注文した。表にサンプルが出ておったのでな」
「はい」
「ところが、そんなメニューはないという」
「はい」
「冬季限定と書かれておったので、もう春先なので、なくなったのかと思うた。または、冬季限定サンプルをまだ飾ったままにしておったかじゃ。わしは後者じゃと思い、表に出ていたと言った」
「はい」
「すると、それは玉子あんかけだという」
「はあ」
「穴子あんかけと玉子あんかけとをわしは読みちがえたのやもしれぬ」
「あのう」
「なんじゃ」
「お話というのは?」
「今、話しておろう」
「これでしたか」
「頼みとはほかでもない。その玉子あんかけとやらを一度食べてきてはくれぬか」
「食べられたのではないのですか」
「穴子あんかけなら食べたい。しかし、玉子あんかけとは何物じゃ」
「分かりました」
小男は雨の中、蕎麦屋へ向かった。
了
2008年04月20日