小説 川崎サイト

 

磨崖仏

川崎ゆきお



 冷たい雨が山中に降りしきる。春の嵐だ。
 洞窟の中で老婆が磨崖仏を前に奇声を上げ立てている。何かの祝詞か、経文か、区別がつかないほどの奇声だ。
 磨崖仏もこれでは聞き取れないだろう。
 神も仏もないのかもしれない。
 いつ頃誰が掘ったのか知れぬ石像は仏の顔をしている。
 洞窟は浅く、その奥と言っても高が知れた場所だ。自然の風穴と言うより、岩の裂け目と言ってもいい。
 町からそれほど遠くはない。
 老婆はここしばらく町から通っている。山中と言っても山と山が目隠しとなり、そこだけ見ていれば、山の中のようにも見えるが、小山の向こうは市街地だ。
 老婆の奇声は続く。行者の扮装だが、土産物屋で売っていそうな装備だ。
 磨崖仏がある以外、他にこれと言った仏具や神器はない。
 その雨の中を、里山管理の老人が訪れた。椎茸栽培を本業にしている。
「婆さん、精が出るのを」
「今、気合中じゃ、声をかけるでない」
「春先とは言え、この雨は冷えるぞ。暖がいるではないのか」
「多少はな」
「ホカホカカイロを持ってきたで、つけるといい」
「おお、これは有り難や」
「まあ、ここは、わしんとこの山じゃから、好きなだけ励めばよい」
「恩にきる」
「その石仏はのう、誰かが持ち込んだものでな。得体は知れぬぞ」
「いや、この穴といい仏といい、もってこいの霊場じゃ」
「掘ったものじゃないぞ。岩の透き間じゃ」
「掘った跡がある」
「それは、わしらが子供のころの隠し砦じゃ。少しは広くなったが。さすがに岩は削れん」
「もう少しで珠が落ちるゆえ、使わしてくだされ」
「それはいいが、何が落ちるんだって?」
「珠じゃ」
「どこから?」
「わたくしからじゃ」
「まあ、なんでもいいから、風邪ひかんようにな。雨の降る日は休めばいいんじゃ。漁師も山には入らんぞ」
「あい、ありがとさんで」
 管理の老人は崖伝いに穴から降りた。
 老婆の奇声がまた始まった。
 雨の降る山中、奇鳥が鳴いているような趣きだった。
 
   了

 


2008年04月23日

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