私小説を書く男
川崎ゆきお
「今日はもう何もしなくてもいいよ」
主任が三浦に伝える。
まだ夕方前だ。
「もう仕事は終わりですか」
「そうだね。手伝ってもらう用事がない」
「じゃ、整理でもしておきます」
三浦はパソコンに向かい、ファイルの整理を始めた。
「明日もどうかなあ」
主任が聞こえるように呟く。
「明日の予定ですか」
「そうなんだが、何も入っていないんだ。飛び込みで入るかもしれないがね」
「じゃ、明日も整理しておきます」
主任は三浦のモニターを覗く。
「何を整理してるの」
「いらなくなったファイルとかです」
「そうか、でも、そんなに整理しないといけないほどファイル数が多いの」
「多くはないですが、分類してます」
主任はファイル一覧画面を見る。
「終わった仕事が多いねえ。削除していいよ」
「はい」
「これから必要なファイルはほとんどないでしょ」
「そうですが、資料として、残しておけば、あとで役立つかもしれませんから」
「そうだといいんだがね」
「暇ですから」
「このフォルダは何?」
「これはBUNフォルダです」
「見ていいかね」
「あ、はい」
三浦はBUNフォルダをクリックした。
ファイル名がずらりと並んでいる。
「なんだいこれ?」
「見ますか」
「吉田の秘密ってファイル、開いてくれ」
「はい」
(私は仕方なく作業を続けた。汗が額を滝のように流れ、やがて口元を襲った。私は思わず吐き出した。それは、この仕事に対する私の心情のようなものだった)
「なんだねこれは?」
「私小説のようです」
「君は仕事中に私小説を書いていたのか」
「僕じゃありませんよ。前任者の吉田さんです」
「吉田君か」
「はい」
「削除しなさい」
「はい」
了
2008年05月19日