ある往復
川崎ゆきお
一仕事終えた益田は、コーヒーショップでホットコーヒーを味わった。
専門店の豆の香りが香ばしい。
豆の味がする。そんな時は煎れ立てのためだけではなく、気持ちの問題が加わる。
益田は豆の味がした時は、体調もいいらしい。当然気分もいい時は、積極的に味わおうとする。これは余裕があるためだ。
今日の益田は、満足のゆく仕事をし終えたため、豆の味も格段濃い。
「いつもこうだといいのだが…」
と、思った瞬間、ケータイが鳴る。
社からだ。
「どういうことですか?」
すぐに戻って来いと、上司からの命令だ。
出先で仕事を終え、そのまま帰宅する段取りだった。ちょうど帰る方向の駅だ。
益田は逆流するように社に戻った。
「君が受けた案件だけどね」
先程成立した仕事だった。
「先方が、追加してきたよ」
「そうなんですか」
「すぐに聞いてきてくれ」
「この時間にですか」
「遅くてもかまわないらしい」
益田はさらなる契約成立を上積みするため、社を出た。
不審感が走った。
どうして社に一度戻らなければいけなかったかだ。
コーヒーを飲んでいた場所は御客を訪問する時に降りた駅だ。そのまま向かわせればいいではないか。時間の無駄だ。
社に戻らなければいけない用事はなかった。契約関係の資料は鞄に入っている。
上司は電話でも分かることを口頭で伝えただけなのだ。
益田はコーヒーを飲んでいた駅前に再び姿を現し、そこから、駅前通りを直進し、雑居ビル内にあるオフィスのドアを再び開けた。
「やあ、御足労だね。一度に頼めばよかったんだがね。別件でもう一つあるんだ。それも君にやってもらいたくてね」
益田は仕事を終えた。
そしてまた、あのコーヒーショップで、豆の味を嗅ごうとした。
しかし、口に含んでも味はしなかった。
そこへケータイが鳴る。
上司からだ。
「商談は成立しました」
「御苦労様。一度社に戻ってくれないか」
「どんな用件でしょうか」
「先方が、また追加を言ってきた」
「じゃ、このまま向かいます」
「いや、社に一度戻って欲しい。いいね」
益田はなぜ、こんな無駄な往復をやらされるのかは、未だに分からないままだ。
了
2008年05月22日