小説 川崎サイト



能面女

川崎ゆきお



 二十代後半。もしかすると三十をかなり越えているかもしれない。
 女性の年齢は分かりにくい。だが、若い娘でないことは確かだ。
 私はその女を何度も見ている。
 よく行く喫茶店やファストフード店で見かける。
 同じようにその女も私を見かけていることになるのだが、彼女からの視線を感じたことはない。
 私は一日何度も喫茶店へ行く。
 それらの店で彼女をたまに見かける。
 喫茶店に一人で入る女性客は珍しくはないが、少数派だ。
 そして彼女はバッグ類を持っていない。手ぶらなのだ。
 そして喫茶店で、何もしないで座っている。
 ある深夜、私はファミレスで彼女を見かけた。自転車で少し走らないと行けないほどの距離だ。
 かなり広いエリアへ彼女も乗り出しているのだ。
 いつも町内の喫茶店で見かける人を、遠い場所で発見したとき、多少の馴染みを覚えるものだ。
 そして、私と同じようなコースを彼女も回っているのかと思うと、親しみさえ感じる。
 彼女はいつものように背筋を延ばし、ほとんど顔や視線を動かさずに座っていた。
 私と同じように彼女もドリンクバーの飲み物だけで、食事ではなく、遅くまで開いている喫茶店として来ているようだ。
 喫茶店以外でも彼女を見かけることもある。
 きっと喫茶店からの帰り道なのだろう。彼女は極めてゆっくりと歩いていた。
 前方の一点だけを見ながら移動しており、行き交う人や通りの景色は視界にないようだ。
 頭痛がひどいので上体を動かさないで歩いているような感じだ。
 私は、やや個性的な人程度に認識していたに過ぎないのだが、そこからはみ出るシーンを見ることになった。
 ある日、私は昼過ぎによく行く喫茶店で本を読んでいた。
 そこに彼女が入って来た。そして隅のテーブルに座った。
 この喫茶店でも彼女を一度だけ見かけたことがある。
 しかし今日は違っていた。
 ウェイトレスがおしぼりとお冷やを運んだ後、彼女はおしぼりで口元をふいていた。
 しばらくしてウェイトレスがやって来た。
 まだ注文をしていなかったようだ。
 私は、彼女をジロジロと観察するつもりはないので、本の世界に戻った。
 ところが、ウェイトレスの声に驚き、彼女のテーブルを見た。
 そのウエイトレスはいつも可愛い声で、注文を聞きに来る。
 ところが今の声は、いつもの声ではなく、ヒステリックで甲高い。
 聞き耳を立てなくても、その言葉は耳に入った。
 何かご注文されないと、サービスは提供出来ません……と、いうものだった。
 つまり彼女は、座れる椅子とおしぼりとお冷やだけが欲しかったのだろうか。
 世の中には常識がある。その範囲内で人は行動する限り、すんなりと流れる。
 彼女は何も口にしたくないのかもしれない。それなら常識的に考えて喫茶店には入らない。
 何度も言ってるでしょ……と甲高い声が続く。
 一度だけではないようだ。
 彼女は能面のような顔で、表情はそのままだ。
 やがて、店長の中年男が現れ、彼女に何かを伝えた。おそらく出て行くようにと促したのだろう。他の客に聞こえないように小声で、しかも物腰も柔らかく。
 彼女は能役者のように舞台を降りて行った。
 彼女はバッグ類を持たない以外は、普通の服を着ている。
 きっと精神的に辛い症状の人なのかもしれない。
 
   了
 
 
 


          2005年9月28日
 

 

 

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