小説 川崎サイト



迷歩

川崎ゆきお



 降りたのは村田だけだった。
 バスはすぐに発車し、山間のカーブへ尻を振りながら消えて行った。
 時刻表を見ると、夕方に駅前行きが一本ある。
 まだ昼過ぎなので陽も高い。
 ちょっとした山歩きには十分過ぎる時間だ。
 村田は将来のことを考えたりするとき、山歩きをする。
 自然の中を歩くことで、町中では望めない研ぎ澄まされた思考回路に入れるからだ。
 また、そういう時間を持つことが大事だと確信している。
 バス停前から山道が伸びている。
 ここで降りるのは初めてだが、何度かその道をバスの窓から見ていた。
 村田の山歩きはアドリブで、地図で下調べもしないし、案内板も見ない。
 見ると、予定されたコースを歩かされている気になるからだ。
 村田は里山を散歩するような軽装で、その山道に入った。
 下り坂が続く。
 この辺りの山は都心からも遠く離れた辺鄙な場所なので、ハイキングコースとして人気がないようだ。
 坂を下った辺りに少し広い場所があり、祠がある。
 その前に古そうな道しるべがある。刻み込まれている文字は殆ど風化し、読み取れない。
 村田は転職を考えていた。リストラの波をモロに受けた職場は人が少なく、連夜の残業で自分の時間が持てない。
 いっそのこと辞めてしまい、我が家でネットショップでもやろうかと考えていた。
 今日の山歩きは、その決断を固めるための時間だった。
 山襞を縫うように道が続いている。たまに上り坂になるが、全体としては下っている感じだ。
 帰りは上りが多くなることを考え、適当なところで引き返そうと考えたが、まだ歩き出していくらも経っていない。
 木に赤いテープが貼られている。山関係のボランティアが道しるべとして貼ったものだろう。
 家族にどう説明するか……云々が頭の中で回転した。
 言い出すときの情景が浮かんだ。
 様々な想像をしながらも、道の様子や周囲の風景も、しっかり目に入っている。
 沢の底に達したのか、湧き水が細い流れを作っている。
 山道は川とも言えぬ流れと並行して走っている。増水しても通れるよう、一段高い場所だ。
 石饅頭がある。
 野仏と言えるほどの造形性はない。かなり古そうで、顔は欠けており、その上を苔がこびりついている。古くなった前垂れが、まだ残っている。
 昔の人々の気配を感じる。
 昨日今日出来たハイカー用のコースではなく、昔からある山道なのかもしれない。
 それから、どれぐらい歩いただろうか……村田は似たような景色の中を歩いていた。
 目印になるような高い山もなく、川底を綿々と移動している感じだ。
 里心がついたわけではないが、そろそろ引き返すべきだと思い、Uターンした。
 ボーナスが出てから辞める……と決心が固まったためでもある。
 気持ちがそこで落ち着いたのなら、もう思案用の山歩きは必要ではない。
 二時間ほど下りの多い道を進んだ。戻りは上り坂が多くなるはずなので時間がかかるかもしれないが、一度通過した道は意外と展開が早い。
 だが、行けども行けどもバス道には出られなかった。
 迷ったことに村田が気付いたのは、下り坂が続き出してからだ。
 気付かないうちに分かれ道があったのかもしれない。
 野仏を見付けたが、首が落ちており、来るとき見たそれではない。
 道は谷底を縫うように走っており、視界が悪い。
 似たような木や下草や岩が続いている。
 近くに大きな町はない。
 乗ったバスが郊外の端にある終点駅で、駅がポツンとあり、妙見山と呼ばれる信仰の山へのケーブル乗り場。土産屋がある程度の駅前と言ってよい。
 村田は、そのまま進むことにした。
 並行して流れる川と共に下流に出れば、何とかなると思ったからだ。
 しかし、山から下りるという感じではなく、山から山へ移動しているだけの感じだった。
 そして陽は傾き、薄暗くなってきた。
 真っ暗にならないうちに抜け出さないとまずいことになる。
 遭難という言葉が浮かび上がった。
 そのとき、明かりが見えた。
 村田は急ぎ足で、先へ進んだ。
 明かりは多数あった。
 家屋と大きな川が足元にあった。
 助かったと思い、撥ねるように下った。
 山道が村道となり、さらに進むと里のメイン通りに出た。
 雑貨屋や食堂や旅館まである。
 バスの停留所もあり、小屋のような待合室には人もいる。町へ出るバスがまだあるかもしれない。
 村田は時刻表を見た。二時間後に駅前行きの最終便があった。十分間に合う時間帯で、これで無事に帰ることが出来る。
 そう思うと村田は急に嬉しくなった。
 緊張の糸が緩んだ。
 村田は温泉と書かれた看板を発見する。
 それで合点がいった。
 こんな山間の渓谷に村落があるのが不思議だった。稲作が出来るような場所ではない。
 温泉が湧いていたのだ。
 通りを進むと温泉旅館が並んでいる。
 村田は裏側からここへ来たのだ。
「入浴だけでもよろしいですよ」
 玄関先でハッピ姿の婆さんから声を掛けられた。
 まだ二時間あるので温泉に入ることにした。
 玄関を上がると高校生バイトような娘が案内してくれた。
 部屋は宿泊で使われる客間だった。
 浴衣と手ぬぐいが籠に用意されていた。
 温泉と言っても普通の浴槽だった。家族風呂程度の広さだが、一人では十分広い。
 湯に首まで沈めたとき、生きた心地がした。
 人生は筋書きのないドラマだ。会社を辞め、ネットショップをやるのも悪くはない。やれば何とかなるような気がした。
 湯から上がり、浴衣に着替えた。まだ時間はある。
 村田はビールを注文した。
 温泉があるので、こんな渓谷にもバスが来る。
 結構流行っているのか、客の笑い声も聞こえてくる。
 ビールとおつまみを運んで来た娘が酌をしてくれた。
 この温泉は古いのかと聞くが、娘は首をかしげるだけで、よく分からないようだ。
 新入りのバイトで、接客には慣れていないようだ。
 いい気分になったところで時計を見ると、そろそろ立ち上がらないといけない時間だった。
 村田が立つより先に娘が先に立った。
 そして、お膳を部屋の隅へと運んだ。
 村田は着替えるので、出て行ってもらいたかった。
 娘は押し入れを開けた。
 そして布団を敷き始めた。
 村田は宿泊する気はないことを告げた。
 娘は意外な顔をした。
 泊まり客だと勘違いしているのだろう。
 バスが出る時間が迫っていた。
 娘は前掛けを外した。
 
   了
 
 
 


          2005年10月15日
 

 

 

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