小説 川崎サイト

 

庭男

川崎ゆきお



「おや」
「やあ」
 縁側の老人が、挨拶してしまった。
 見知らぬ男だ。
「こんにちは」
 男は帽子を取り、頭を下げ、礼儀正しい」 老人は適当な衣服でくつろいでいた。暑いので、縁側で涼んでいたのだ。
「暑いですなあ」
「そうですなあ」
 誰だろうと、老人は思ったのだが、相手の調子に合わせてしまった。
「えーと、どちらさんでしたかな」
「旅のものです」
「はあ?」
「旅から旅への旅人です」
「ああ、そうなんだ」
 老人が住む家の庭は、隣の人でも入り込めない。庭と隣家とは塀で閉ざされている。もし、入り込むとすれば、塀を乗り越えないと駄目だ。そのことを老人は知っていた。
 だが、もともとは隣家との境界線は曖昧で、狭い通路で区切られていた。そこを塀で仕切ったため、通り抜けられなくなったのだ。
 老人はその頃のことをよく知っていた。隣の奥さんがおかずを持ってきてくれたり、近くの子供がかくれんぼで、入り込んだりしていた。
 今は、この庭へ入り込むのは猫ぐらいだ。
「旅人ですかな」
「はい」
「旅の人がどうして、こんな庭へ」
「知らぬ間に迷い込んでいました」
 塀を乗り越えなければ入り込めない庭だ。知らぬ間は嘘だとは老人も分かっている。
「それで?」
「はあ?」
「いや、だから何か御用ですかな」
「通りかかったので、挨拶です」
「それは、ご丁寧に」
「ご主人は、お一人で?」
「ああ、わしか。一人暮らしだよ」
「ああ、そうなんだ」
「で、それで?」
「いや、そうじゃないかと思いましてね」
「なるほど」
「じゃ、私はこれで」
 男は塀に登った。
「足場が悪いですぞ」
「あ、はい」
 男は塀の上を移動しようとしていたが、伸びた庭木が遮っていた。
「危ないですぞ」
 男は庭木の枝につかまり、くわっと、ぶら下がって塀から塀へと移動した。

   了

 


2008年07月29日

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