錯覚しない
川崎ゆきお
日常にはない不思議な世界があるのではないかと、期待しながら立花は散歩を楽しんでいた。
この場合、散歩者ではなく冒険者だろう。または、探検家だ。
だが、普段着で、町内を歩いているだけなので、ただの不審者かもしれない。
不思議な世界が日常の中にポッカリ口を開いているようなことは、まずないとは思いながら、それを想像しながら歩くのが好きなようだ。
では、不思議な空間とは何だろう。日常風景ではないような光景が見たいのかもしれない。
それは上手く錯覚を楽しむ程度のものだろう。立花にとっての日常から離れれば、冒険者になれる。
それには珍しいもの、見かけないものとの遭遇が必要だ。
しかし、立花が歩いている町内では、それはもう望めない。最初は珍しくても、見慣れると日常風景になってしまうためだ。
では、人物はどうだろうか。
これも通行人との遭遇は打率が低い。ほとんどの通行人はありふれており、日常の中にある。
円盤でも飛んでくれば、日常は崩れる。
その可能性がないわけではない。
たとえば、円盤投げのあの円盤に近い物体が飛んでいたとすればどうだろうか。これは世界観が変わるほどの出来事になるだろう。
小さな円盤を叩き落すと、中から小さな宇宙人が出てくる。一寸法師のお碗の船のような円盤なので、中の宇宙人は一寸法師だろう。
この種のことはありえない。可能性はゼロに近いだろう。
もしそんなものと遭遇すれば、逆に日常が崩れてしまう。
その意味で、立花は現実的なものではなく、想像的な世界を楽しむようにしている。
そんな散歩詩人的な立花なのだが、最近散歩に出なくなった。
想像力が枯れてしまったためだ。
以前なら、路地裏を小さな円盤も飛んでいたのだが、最近はそれがない。
「大人になったのかなあ」
立花は世の中のことが分かる年頃になっており、ありえることと、ありえないこととの違いが明確になっていた。以前は曖昧で、可能性の余地を残していたのだが、それを外してしまったのだ。
立花は現実的な世界しか見えなくなり、世界がつまらないものとなった。
錯覚したおした子供時代を懐かしむ立花だった。
了
2008年09月01日