小説 川崎サイト

 

達人と師匠

川崎ゆきお



 その道の達人は、自分が達人であることが生きている証となる。それがなくなると、ただの人になってしまう。
「わしはもう、ただの年寄りだよ」
「何をおっしゃる大達人が」
「それは昔のことでな。今は隠居さんじゃよ」
「いえいえ、まだまだ力がおわりだ」
「終わりだよ。終わり」
 新弟子がその会話を聞いている。
「達人であることには、かわりないですよ。誰もが認めているのですから」
「それで、用は何だ」
「指導して欲しいのです」
「君がすればいいだろ」
「僕では駄目です」
「なら、わしでも駄目じゃ。もう力はないのでな。新弟子のほうが巧いよ。教えることもない」
「そうではなく、人間的な指導を」
「人間的?」
「達人の道を」
「そんなこと教えるものではなかろう。習うものじゃ」
「でも、言わないと、マナーが悪いのです」
「マナー?」
「達人候補としての行儀がなってないのです」
「それは君が教えればよいだろ」
「そこを助けていただきたいと」
「つまり、わしに暇仕事を頼みたいのじゃな」
「暇仕事?」
「そうじゃ。厭仕事じゃ」
 新弟子たちは聞き耳を立てている。
「では、どうすればいいのじゃ」
「叱って欲しいのです」
「あいつらをか」
「そうです」
 新弟子たちは一瞬手を止める。
「君が叱ればいいだろ」
「師匠のほうが効果があるかと」
「で、どう叱るんだ? 何を叱るんじゃ」
「行儀作法です」
「行儀よくやっておるじゃないか」
 新弟子たちは作業を続けている。
「わしは、人間の達人じゃない。面倒なことを言うでない」
「今は、師匠がいるから、行儀よくやっているんです」
「君もそうだったじゃないか」
「昔のことです」
「今は君が連中の師匠」
「僕は大達人になりたいですが、師匠にはなりたくありません」
「そりゃ、わしもだよ」

   了


2008年10月25日

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