幻の蕎麦屋
川崎ゆきお
村田は幻を見たのだろうか。
最近記憶力が落ちたように思う。すぐに忘れてしまうのだ。
本屋で釣り銭を貰っても、本を受け取ったあと、まだ立ち止まっている。釣り銭を貰っていないと思うからだ。そう思うのは、貰った記憶が飛んでいるためだ。
それほど大事なことではない。だから、適当に見ていたのだろう。
また、お金だけ払い、本を受け取らないで、帰ってしまうこともあった。ブックカバーを付けるため、本が消えていたからだ。もう受け取ったと思った。
しかし、今回はそんな感じではない。買い物のような行為ではない。
それは大きなスーパーにある蕎麦屋だ。レジ前にちょっとした空間があり、そこに小さな花屋とか、菓子屋が並んでいる。
そこに蕎麦屋があった。別に仕切りはなく、屋台のような蕎麦屋だ。のれんがあるので、蕎麦コーナーだと分かる程度だ。
今回見た幻は、それだ。
この蕎麦屋は専門店の出店のようで、スーパーの直営ではない。
そして、スーパーは何度も改装し、行くたびに蕎麦屋の位置が違っていた。
それはもう五年以上前の話で、その後スーパーの建物が、別のスーパーになり、蕎麦屋もなくなった。
ところが村田は、この蕎麦屋を最近見たのだ。
蕎麦屋は、惣菜売り場の横にあった。五年前にあったあの蕎麦屋ののれんを遠目で見たのだ。
今度来たときは、重宝すると思いながら、その日は中には入らなかった。
ところが、しばらくして寄ってみると、消えている。
これは物忘れではない。忘れたのではなく、余計なものを記憶しているのだ。
村田は気になり、主婦に聞いてみた。
「蕎麦屋? パン屋さんの間違いじゃない」
村田が見た場所は、パンとパスタの店になっており、中で食べられるようにもなっている。蕎麦屋にしては広すぎる。
では、村田が見たのはなんだったのか。
今度は警備員に聞いてみた。
「蕎麦屋、ありましたよ。でも、開店したその日に消えました」
のれんが出ていたのは、数時間だったらしい。
「どうして?」
「急遽変更し、パンとパスタの店になったんですよ。本当は蕎麦屋を出すつもりだったんでしょうがね。もう出来ていたんですがね」
スーパーの方針で、すぐに閉めたのだ。
村田が見たのは、文字通り幻の蕎麦屋だった。了
2008年11月7日