癒しの滝
川崎ゆきお
滝しかない観光地だが、都心から近い。
私鉄が山間にまで延び、住宅地になっている。そこを流れる川を少しさかのぼれば滝が見える。
上原は精神的慰安を求めて滝のある駅へ来た。
滝を見ることで、やすらぐと聞いたからだ。
その滝は信仰の対象になっていない。滝を浴びるような修行は出来ない。理由は簡単で、そこそこ高い滝で、真下に入ることは出来ないためだ。
昔は修験の場だったかもしれないが、とっくの昔に終わっている。都心に近く、すぐ近くまで住宅地になっているため、場所として浅いのだろう。
それが幸いしてか、滝は誰のものでもない。強いていえば観光客のものとなっている。
滝を見ることで癒される。手垢の染まっていない滝なので、間に信仰のための何かがない。マイ滝化しやすい理由がそこにある。
上原は疲れ果てていた。
滝を見ることで、聖なるエネルギーを吸収したかった。
職場でのいざこざ、将来への不安。面倒な家族。運動不足な身体。それらを滝を見ることで、清められるのではないかと考えた。
駅から滝までは三キロだ。登りの三キロは少しは足を使う。
似たような人間が滝に向かって歩いていた。日曜なので、家族連れもいる。
半分ほど歩いたところに茶店がある。上原は休憩した。
粗末な食堂で、上原はおでんの盛り合わせを食べる。ビールを飲みたいところだが、それをすると今日の目的が果たせない。
酒を飲むのはいい。御神酒だ。だが、それは滝を見てからにすべきだ。
そして、残り半分を登り切ると、茶店だらけだった。
焼き栗や焼き芋。たこ焼きやフランクフルト。ぜんざいに草団子。
縁日の屋台のような賑わいで、さばききれないのか行列が出来ている店頭もある。
滝はそこにある。それを見ながら、日々の反省をするはずだった。一人心静かに滝と接するはずではなかったのか。
上原はそう思いながらも、茶店に入り、ビールを注文した。
もう滝は視野にない。了
2008年11月24日