小説 川崎サイト

 

世の中

川崎ゆきお



「最近世の中が見えなくなったよ」
 遊びに来た高橋が言う。
 そこは高橋の旧友のいる木造モルタル塗りのアパートだ。とっくに取り壊されていてもおかしくない建物だ。
 今津はにやにやしている。
「君はそういうことはないか」
「世の中なんて、最初から見えていないさ」
「いや、僕は見えていた」
「結婚して安定路線行ってるのかと思っていたが、どうしたんだ」
「安定している。平和に暮らしているよ。家庭も問題はない」
「じゃ、なぜ見えなくなるんだ。社会人路線を走っているじゃないか。何も問題など起ころうはずはない。そうだろ」
「いや、このアパートで暮らしていた頃は、見えていたんだ」
「俺は見えないぜ」
「違う。見えているんだ」
「見えていないと言ってるのに」
「正確に言えば、さらに見えなくなるんだ」
「世の中がかい?」
「そうだ。何となく落ち着かない。ここが世の中なのかどうかさえ、疑わしい」
「俺のような無産階級より、よほど君の方が世の中に出て、世の中見ていると思うけどなあ」
「それなんだ」
「どれ?」
「こういう会話なんだ」
「ええ、なに?」
「こういう会話の中に世の中があったんだ」
「そんなの話の上での話だろ。本当の世の中じゃないよ」
「それなんだよ。そういうことを言っている状態が欠けてしまったんだ」
「え、どういうこと。俺との会話の中に世の中があるのかい。それは逆だろ。君のやっている社会人生活こそ世の中の渦中だ」
「たったこれだけの世の中か、と思うことがあるんだ」
「家庭とか、会社とか、広いじゃないか。俺なんて一部屋の中で、じっとしているんだぜ。狭いの極みだよ」
「まあいい。たまに来ることにする」
「それは、別にかまわないけど」
「君はまだ広い世の中にいるんだ」
「狭いって言ってるだろ」
「それでいい。やっと落ち着けた。世の中と合流できた思いだ」
「あ、そう」
 高橋は機嫌良く引き上げた。
 
   了


2009年1月14日

小説 川崎サイト