般若心経百万回
川崎ゆきお
学生時代の同級生と偶然出合うことがある。それほど親しくない関係なら、一方が目をそらし、見なかったことにすればすれ違うだけで終わる。
岸本にもそんなことが何度かあった。こちらで目をそらす場合もあるが、こちらから目を合わそうとすることもある。声をかけるほどではない場合が多い。
その日、相手から声をかけられた。
高校時代の同級生だ。名前までは覚えていない。
「岸本じゃないか。久しぶりだな」
岸本はまだ名前を思い出せない。
「俺だよ。藤田だよ」
岸本はやっと名前と顔が繋がった。その顔は昔の面影を二割ほど残していた。名乗らなければ知らない顔だ。
「まだ、超常現象、やってるのか?」
藤田は記憶がいいようだ。
岸本は、なぜ声をかけてきたのかを疑った。きっといつもと違う状況に彼が陥っているのではないかと邪推した。なぜなら、高校時代、それほど親しく話した覚えがないからだ。
「懐かしい顔を見たんで、つい声をかけたんだ。忙しいのか」
岸本は何か頼まれるのではないかと警戒した」
「聞きたいことがあるんだよ」
二人はファーストフード店に入った。
「おまえ、般若心経百万回唱えるって言ってたなあ。そうすれば四次元が見えるようになるって。あれから二十年以上たつ。どうなんだ」
岸本はすっかりそんなことは忘れていた。
「どこまで唱えた? ストップウオッチ、カチャカチャいわしてたじゃないか」
「ああ、覚えてるよ」
「見えた?」
「何で、そんなこと聞くの」
「最近いやなことが多くてさ、般若心経の写経してるんだよ。。それで、おまえのこと、思い出したんだ」
「十万回はいったと思うけど、それ以上は覚えていないよ」
「十万回なら、十パーセントだろ。少しは見えるんじゃないの」
岸和田にとっての四次元とは、守護霊が見えたり、その守護霊から霊界の様子を教えてもらうことだった。
「今、やってみなよ。全部は見えなくても、十パーは、見えるはずだよ」
岸本は目を開けたまま般若心経を口の中で唱えた。
すぐに涙が流れてきた。瞬きしてはいけないためだ。その状態で何かが見えるのだ。
「どう?」
岸和田は集中する。
しかし、目が痛くて、そこでやめた。
「何が見えたか?」
「ノイズだけだ」
「また続けたら、どう」
「いや、もう信じていないから駄目だよ」
二人は、般若心経の話をその後続け、切りのいいところで、解散した。
岸和田は得意とする領分を藤谷に取られたような気になったが、惜しいとは思わなかった。了
2009年3月13日