小説 川崎サイト

 

探偵事務所

川崎ゆきお



 いつ取り壊されてもおかしくないような古ビルに、探偵事務所がある。レトロビルというほどの価値はない。安普請のビルだ。
 小さなオフィスが家賃が安いためか、結構入っている。会計事務所や設計事務所だ。
 吉岡はとある営業事務所の支店長だ。
「隣に探偵事務所が入ったようだな」
「挨拶なしですよ」
 無表情な中年の女性事務員がいう。
「どんな奴だ」
「まだ若いですよ。三十前後」
「ドアに探偵と出ていたから、笑ったよ」
「嬉しがりじゃないですか」
「ドラマを見すぎたんだろうね」
 ドアのノック音。
 事務員が開けると、噂をすれば影で、探偵の姿。
 壁が薄いので、聞こえたのだろう。
「どうぞ」と、吉岡が手招きする。
 手の先は応接テーブル。
「ちょっと、挨拶に来ただけですから」
 探偵はドアのように突っ立っている。
「まあまあ、探偵さん。どうぞどうぞ」
 事務員はお茶を用意する。
 吉岡は探偵を観察する。
 顎の下に髭の剃り残しがある。鰓が張っているためか、カミソリが入りにくいのだろう。
 ビジネスマンのようなスーツ姿だ。
 よく見ると、上と下では生地が違うようだ。色は同じなのだが。
「このたび、探偵事務所を開いた者です。よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく。わざわざ挨拶とは、ご丁寧なことで」
「いえいえ」
 吉岡は保険会社の名刺を差し出す。
 探偵はズボンのポケットから何かをごっそり取り出す。
 何かの中身は千円札やカード類だ。
 五円玉が、ぽとりと落ちる。
 事務員の足下で玉は停止する。
「あ、どうも」
 探偵は事務員から、五円玉を受け取る。
「テーブルの上に出せばどうです」
 事務員がいう。
 探偵は、取り出した分をテーブルに置く。
 探偵のポケットにはまだ何か入っているらしく、もぞもぞ探っている。
 そのポケットにはないらしい。
 探偵は尻のポケットから折りたたみの財布を取り出す。
 財布からレシートがはみ出ている。カード差しに入っているカードも横に入れるところが縦に入っている。
 カード差しがパンパンのようで、抜けないようだ。
 探偵は財布をズボンの尻ポケットにしまおうとしているのだが、上着がじゃまをして、ポケットの穴にうまくは入らない。
 探偵は上着を少しまくり、尻を軽く上げる。
 無事、しまえたようだ。
「えーと、何でした」
「名刺を探していたんじゃないですかね」
「あ、そうでした」
 探偵は今度は内ポケットに指をつっこむ。そして、たばこの箱ほどの厚みのある名刺の束が出てきた。
「えーと、何枚?」
「一枚でいいですよ」
 探偵は名刺をトランプのようにくり、中から一枚抜き出す。
 吉岡はその名刺を見る。
 紙が悪いのか、インクが悪いのか、指でこすると文字が擦れた。
「じゃ、これで」
 吉岡は、もう挨拶は終わりと判断し、立ち上がった。
「あ、はい」
 探偵も立ち上がり、室内をきょろきょろ見る。入ってきたドアを探しているようだ。
 室内にはドアは一つしかない。
「ここだな」
 といいながら、探偵はドアを開け、出ていった。
「塩、まくとけ」
「はい」
 事務所に塩はない。
 事務員は塩をまくポーズをした。

   了


2009年5月23日

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