小説 川崎サイト

 

空想家

川崎ゆきお



 想像力のある人間ほど慎重だ。
 ある事柄から、何かを想像する。その事柄は、どういうことを意味しているのかと想像する。これは悪いことではない。
 ただ必要以上に想像の羽根を伸ばすと、現実から遠ざかることもある。可能性を考えるのはいいのだが、そこから先、憶測が入ると、とんでもない妄想になることもある。
 すべてが妄想になってしまうわけではなく、当たれば、カンがいいということになる。当たれば、の話だが……。
 木下は想像の羽根を伸ばすタイプで、今では、それが当たっていようがいまいが、どちらでもよくなっている。もう、想像でも憶測でもなく、ただの空想だ。
 つまり、空想家なのだ。
 空想家と妄想家の違いは、前者の方が無邪気だ。そして後者は邪気が入る。
 この邪気は、自分との絡みで成立する。空想はただ単に想像を楽しむことだ。
 空想家はシミュレーションする。想像が当たっているかどうかは、結果を見ないとわからない。だから、複数の想像をする。そのうち一つが当たっている場合がある。だが、すべてはずれていることもある。
 また、結果が出ない場合もある。答えがわからないままの事柄もあるからだ。
 木下は、複数の想像をするだけで、どれかを選択しない。可能性のパターンを考えるだけで終わる。だから、空想家なのだ。
 空想するだけで終わるため、罪はない。現実とは絡まないためだ。
 その日、木下はスーパーで弁当を買おうとしていた。これを帰ってきてから食べるわけだが、そのときの感じを想像する。ハンバーグ弁当と幕の内弁当が目の前にある。他にもあるが、狙いはこの二つに絞ったようだ。
 少なくても、この二つのどちらかが食べたいと、思ったからだ。その横のチキン唐揚げ弁当は無視する。想像以前の問題で、嫌いなためだ。嫌いなものは食べているときの状態を想像しない。楽しい空想にはならないからだ。
 幕の内弁当は具の種類が多い。いろいろなものを交互に食べている自分と、しっかりほうばれるハンバーグを食べている自分を想像する。どちらが満足を得られるかだ。
 しかし、そのどちらもやりたいと思う。どちらも食べたいのだ。そうなると選択枝ゲームになる。直感的に食べたいと思う方を選べばよい。しかし、空想家の木下は、一度空想というステップを踏んでからでないと手が出せない。
 そこへ店員がやってきて、半額のシールを幕の内弁当に付けた。
 ハンバーグ弁当はそのままだ。
 木下は迷わず幕の内弁当をつかみ、レジに走った。
 空想は省略されていた。

   了

 

 


2009年6月17日

小説 川崎サイト