小説 川崎サイト

 

閾値

川崎ゆきお



「アイスコーヒーいくらですかなあ」
 喫茶店のドアを開けた男がいきなり言う。
 店主は値段を言う。
 男はドアを閉める。そして、自転車に乗り、立ち去った。
「どういう意味なのかね」
 常連客が店主に聞く。
 それは考えなくてもわかっていることだ。値段を調べているわけではない。値段を聞き、それから入るかどうかを考えるのだ。
 ではいくらなら入るのだろうか。
「近くの喫茶店休みでしょ」
 店主が想像を話す。
「あそこより、うちの方が高い」
「それで入らなかったのかな」
「きっと、決まった金額しか使えないのでしょうね」
 昼食代なら仕方がないが、喫茶店でアイスコーヒーを飲まなくても、日常生活に支障は出ない。
「あの人、ほか、探すのかねえ」
「さあ、この近くに、もう一軒あるけど、夜はカラオケになるような店よ」
「そこはここより安い?」
「安い」
「じゃ、そっちに入るのかな」
「さあ、この辺の人だったら、わかるけど、見つかるかしら」
「見つけたら、同じこと聞くのだろうね」
「そうねえ」
「値段聞いてから入る人って、いる?」
「いるわよ。でも、そんなに高くないわよ。この辺じゃ安いほうよ」
「閾値というやつかな」
「なにそれ? 敷居が高いってこと?」
「その、しきいじゃないけど、まあ、ある数値から反応が違うような、合格点とか」
「今の人、入り口で言ってたから、やっぱり敷居の値段よね」
「今まで、値段聞いてから、入るかどうか、決める人いた?」
「いたわよ。サンドイッチの値段聞いてからとか」
「それって、お金ぎりぎりできているんだね」
「財布忘れて、小銭だけしか持ってこなかった人もいるのよ。だから、払えるお金かどうか、聞くわけ」
「じゃ、さっきの人は?」
「お金、足りていても、高いといやなんでしょ」
「アイスコーヒー飲みたければ、自販機で買えばいいのにね」
「今の人、お歳でしょ。暑いし、ゆっくり座って飲みたいんじゃない」
 また、ドアが開き、さっきの男が入ってきた。
 今度は無言で、あいているテーブルについた。
 主人と常連客の会話は断となる。
「ホットコーヒーいくら?」
 男が聞く。
 主人は値段を言う。アイスコーヒーよりも安い。
「よし」
 客は安堵したようだ。

   了



2009年6月24日

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