小説 川崎サイト

 

綾乃

川崎ゆきお

「急やなあ」
 ハンバーガー屋の店長は顰めっ面をしながら、給料袋を差し出した。僕はうつむいたままそれを受け取った。
 さすがに深夜の二時前、客は少ない。アベックが一組、奥のボックス席にいるだけ。アベックは無言でチーズバーガーをかじっている。
「いくらバイトでも、もうちょっと働いてもらいたかったな。辞めていく人にこんなこと言うても仕方がないけど……まあ……アンタの将来のためもあるしね」
 僕は一週間働いた。
「参考のため、聞かしてもらいたいんやが、何で辞めるの?」
「あっていないようで」
「仕事が?」
「はい」
 僕は店長に敬語を使っていたが、彼は僕より五つは若かった。
「時間給、他のバイトさんより、たくさん出してたと思うけどね。バイトなんやから、多少苦手な仕事でも、お金になるんやから、我慢してたほうがよかったんやない」
「なくてもいいような仕事でしょ」
「何が」
「ハンバーガー屋さん」
「アンタね、よく言うね。そんなこと」
「参考のためでしょ。聞きたいんでしょ」
「そりゃそうやけどね。でもね、あったほうがいいと僕は思うよ。あったほうが楽しいと思うけどね。夜中の二時まで開いている店が近所にあれば便利でしょ」
「なければ、ないで何とかなると思うけど。何か、無理に商売してるみたいやし、それに無理に仕事を作っているみたいやし」
 本当にそう感じていたわけではなかったのだが、年下の人間からアンタと呼ばれ、ムカッとなったのだ。さっきまで僕のことを青沼さんと呼んでいた店長が、僕が辞めると言ったとたんアンタになっている。僕はハンバーガー屋の存在を積極的に否定するつもりはなかったが(アンタ)の一声で攻撃的な態度に出てしまった。
「アンタ、変わってるね」
「そうですか」
「まあ、どう考えるかは個人の自由だけど、アンタこの一週間真面目に働いていたし、客の受けもよかっよ。だから、何で辞めちゃうのかと思って聞いたんや。辞める人間に、そんなこと聞いても仕方のない話やけどね。もう関係なくなっちゃうのやから……」
 自動ドアが開き、チャイムがなった。
「いらっしゃやいませ」
 店長は、急いでカウンターに戻った。
 僕は入って来た客と入れ違いに店を出た。もう二度とこの店には来れないだろう。
 
 ハンバーガー屋から僕の住む文化アパートまではスクーターでひと走りの距離だ。二十四時間営業のコンビニへ寄り、ブドウパンと紙ボトル入りのリンゴジュースを買った。
 文化アパートの階段の下に猫の親子がいた。親猫が五匹の子猫に乳をやっている。こんな場所で子育ても大変だ。
 部屋に入るとすぐにテレビのスイッチを入れようとしたが、雑誌の下敷きになっているのか、リモコンが見つからない。仕方なくテレビの前まで行き、スイッチを押す。
 色のあせた洋画を見ながら、僕はブドウパンをかじった。その洋画は僕は一度見た覚えがある。前に見たときも途中からだった。
 僕は何度も就職し、何度も辞めている。それを繰り返すうちに、長く続かないと予想してしまい、最近はバイトに切り替えている。
 僕としては、きっちりとした会社で、きっちりと勤めたかった。その希望はまだ捨てていないし、常にその気持ちでいる。だが、どの会社へ入っても落ちつかない感じがある。人間関係や仕事内容の不満よりも、その会社で一生過ごすのかと思うと、気が滅入るのだ。
 彼は既に三十を越えている。そろそろ何者かにならないといけない。しかし具体的な夢を持っていない。社会で通じるほどの秀でた才能は持ち合わせていないだけに、職種は何でもかまわない。その意味で選択しやすいのだが、選択の幅がありすぎる。
 蛍光灯を消し、ベッドに横たわる。興奮しているのでうまく眠れないだろう。
 小一時間経過した。案の定、眠れない。目を閉じているよりも、目を開けているほうが楽なくらいだ。
 隣に五階建てのマンションがあり、その一室からいつも遅くまで明りが漏れていてるのだが、今夜は消えている。そのため部屋の中が暗い。
 赤く光るものが目に入った。ほんの数秒だが、生き物めいたものを感じ、ドキリとする。その錯覚はすぐに解け、留守番電話のランプだと認識した瞬間、神秘的な雰囲気がスーと遠のいた。もっと不可解な雰囲気に浸っていたかったのだが……。
 留守番電話を覆っていた包装紙を取り除け、テープを巻き戻し、再生スイッチを入れると、仁科章子の声が聞こえた。ヘヤドライヤを返してくれと言っている。
   *
 大阪駅前ビル地下の喫茶店ルソンで章子と待ち合わせた。章子の勤める会社がこの近くにある。
 三本目のタバコを取り出したとき、自動ドアの音と共に章子が入ってきた。
「ケーキ食べようかな。ここのケーキ、いけるのよ」
 章子はケーキとレモンティーを注文した。
 章子との距離が離れて行くことを意識したのは、彼女が就職してからだ。
「青沼君も食べない、おいしいよ」
「それより、何か意味があるわけ、ドライヤーに」
「いるの」
「それだけか?」
「だって、泊まりに行けないでしょ。で、どう、ハンバーガ屋さん?」
「辞めた」
「……早い」
「最近サイクルが加速気味やねん」
 章子は化粧が濃くなっている。同じ章子なのに、最近の章子は別の人間に見える。
「章ちゃん、普通のOLになってるな」
 章子は目の玉は左右に一往復させた。
「だって、働いてたらそうなるわ」
「みんな、そうなっていくのやな」
「どうして? その言い方。批判的ね」
「そうやないけど、なんか寂しい感じがする」
「青沼君も普通に働いたらどう。別にお願いするわけやないけど」
「その気はある」
「嘘!」
「嘘やない。嘘やないけど……」
「できないんでしょ」
「他にやりたいことがあるわけでもない」
「それ、不精なだけよ」
「そうかな」
「難しい問題やないもん」
「僕、病気かもしれん」
「どんな病気?」
「精神的な病気」
「違うと思う。青沼君は単に怠けたいだけ。それをね、病気のせいにしてるの。病気やったら病院に行きなさい。行ってないでしょ」
「うう……。確かに怠けたいだけかもしれん」
「怠け者でも会社勤めはできるわ」
「しかし、会社へ行く限りしっかり働きたい」
「そんなプレッシャーかけるからアカンのよ」
 以前、この種の話では、章子に勝っていた。だが最近は言い負かされる。
「青沼君、本当は何がしたいの」
「それがな……難題やねん。したいこと別にないわけやないけど……。そやな……今、捜している感じかなあ。そのうち見つかると思うけど……」
「それ、やっぱりどこまでいっても何もない世界よ。そやからいつまでたっても見つからんのよ」
「すると僕は一体何やろ」
「立ち止まっている人」
「それだけのことか?」
「それ以外に何があるの」
「困ったな」
「うんと困りなさい」
「だらしのない男に見えるやろな」
「重症」
「そんなに重い?」
「ほら、そんな真剣な顔にすぐになる。気にしてる証拠。青沼君、自分自身を大切にし過ぎるのよ。慎重すぎて、逆に荒っぽくなってるのよ」
「章ちゃんに対してもか」
「さあ、それは私の口からはね……」
 確かに僕は、僕自身のことで一杯で、章子のことまで手が回らない。章子との関係を考えるゆとりがない。では、僕はいったいどうして立ち止まってしまったのか。自分でも分からない。
「お見合いの話がきてるの」
「あっ、そう」
「これで三回目。毎回断わってるけど、いい人もいてたわ」
「あっ、そう」
「私、もう二十六よ」
「そんなになるか」
「なるわよ。青沼君も三十前でしょ」
「いつの間にか年をとってるんやな」
「考えといてね。このままの状態やったら、ちょっと危ないよ。会社の人からも誘われたりするし……」
「分かった。考える」
「本当かなあ」
 喫茶店を出るときドライヤーを章子に渡す。章子は単にそれを使いたいだけなのかもしれないが、僕にはそう解釈するゆとりがない。
 章子が遠ざかる予感があっても、それを追いかける気になれない。その距離を詰める自信がない。章子は普通のスピードで進んでいる。僕だけが止まっている。もしくは後退している。
   *
 喫茶店を出た後、章子は買い物があるからと、地下街に消えた。このまま一人で帰る気になれないので、行き着けの飲み屋へ向かう。
 風俗営業の客引き振り切りながら東通り商店街を通り抜け、扇町公園に出る手前で左の路地に入った。
 雑居ビルの三階に、三階屋という飲み屋がある。学生時代にはよく来ていた。そのころはジャズ喫茶だった。
 狭い階段を上り、三階屋のドアを開ける。三つあるテーブル席はいずれも若いカップルが占領していた。
 カウンターに藤田がいた。
「よお、青沼やないか。どうしてた。久しぶりやないか」
 この店で彼と出会うことを期待していたのだ。
 藤田とは学生時代からの友達だが、同じ大学ではない。バイト先の饅頭屋で知り合った。仲がいいとか相性がいいとかで友達関係をスタートさせたわけではない。バイトに来ていた二人の女子高生とグループ交際のような感じで、つき合い始めた。その一人が章子だった。もう一人が知子で、藤田と結婚した。藤田は小さな広告代理店に勤めている。
「章ちゃん元気か」
「ああ」
「そろそろ結婚せなあかんな、青沼も」
「またそれを言う」
「そやけどおまえ、章ちゃんを選んだやないか。俺は知子を選んだ。俺が先に知子を選んで、片われの章ちゃんを押しつけたんやないぞ。同時に選んだはずや」
 饅頭屋のバイトを辞めてからもグループ交際は続いた。章子と二人でデートすることもあったが、二人だけでは会話が弾まなかった。
 章子と付き合うようになったのは、ガールフレンドがいる満足感だけかもしれなかった。
「しかし、いずれは章ちゃんと結婚する予定やろ?」
「その線はないかもしれん」
「別れたんか」
「ついさっきな」
「デートして別れただけやろ」
「違う。本当に別れそうや」
「長い付き合いやないか」
「二人とも最初から乗り気やなかったんや。他に相手がおらんかったから、なんとなく付き合ってたんや」
「仲よかったやないか。微笑ましいカップルや言うて、知子と羨ましがりながら見てたんやぞ」
「羨ましがってたのは僕らのほうや。そっちほど充実してなかった」
「充実しすぎると結婚してしまうぞ」
「後悔してんのか?」
「知子とは気が合いすぎた」
「結構やないか」
「後悔があるとしたら、気の合わん子と一緒のほうが楽やったかもしれんということかな……その意味で、青沼らを見てると羨ましい。今もそうや。お前らまだ青春をやってるやないか」
「すごい見方やな」
 藤田は塩豆をかじった。
「おいマスター。塩豆以外の豆はこの店にはないのか。この豆、ジャズ喫茶やってた頃からあったぞ」
「古い豆と違いますよ」
「当たり前や、ジャズ喫茶時代に残ってた豆やとは言うとらん」
 三階屋がまだジャズ喫茶だった頃、コーヒーと一緒に塩豆が出た。当時アルコールは置いていなかった。塩豆は今ではオツマミになっている。三階屋を飲み屋に改築したのは息子。僕らより年下で、あの頃彼はまだ高校生だった。
「同じ豆でも、扱われ方が違う。同じ豆やのに、あの頃の豆とは趣が違う。青沼。お前はあの頃の豆にままや」
「つまり、僕は学生時代から進歩してないわけか」
「進歩を無理に遅らせとるんや。……巧妙な奴っちゃ」
「そんなつもりはない」
「章ちゃんに逃げられんようにせいよ」
「もうアカンわ」
「青沼。おまえはまだ未知があるからええ」
「道?」
「未知や未知や。未知の領域や」
「お前まだ二杯目やないか。なぜペースを上げん。どうせ俺のボトルや。大阪で一番気楽に飲めるボトルやぞ。代理店の仕事は順調そのものや。景気のええ悪いは俺の知ったことやない。会社は社員に給料を払う義務がある。会社の事情なんか俺の知ったことやない」
「何か言われたわけ?」
「会社で何かあったとしても、俺は他人にグチをこぼすような人間やない」
「そしたら何かな?」
「お前を見て急に荒れはじめた」
「僕のせいか」
「お前には未知がある」
「みんなあるやろ。未知は」
「俺は自分の力が分かった。お前は分かってない。俺は広告業界で生きていける。ただ、食うていけるだけやけど」
「羨ましい」
「アホンダラ。お前は俺の気持ちが分からんのか」
 テーブル席のアベックが立ち上がり、レジで勘定した。ガタンとドアが閉まる音がした。
「頼むから就職してくれ。そして章ちゃんと一緒になってくれ」
「それやったら、饅頭屋でバイトしてた頃の繰り返しやないか」
「青沼よ。お前、友達おるか?」
「いてない」僕は即答した。
「俺もおらんのや。俺は知り合いは多い。最近できた知り合いもかなりおる。しかしそれは実感のない友達や。なぜかお前ほどには深い付き合いはできん」
「僕らは深いのかな」
「知子と章ちゃんが間に入っているからや。俺とお前が饅頭屋で出会っても友達にはなれんかったやろ。そこに二人の女の子がおったから俺らは同盟を結んだのや。いわば共犯関係や。お前自分の顔を鏡で見たことあるやろ。お前も俺も決して女の子に好かれるような顔と違う。俺はいかつ過ぎるし、お前は貧相や。偶然二人の女の子がバイトできてた。俺一人やったらアタックできんかった。声もかけんかったやろ。俺とお前がタッグ組んだからアタックできたんや。そやろ」
「うん」
「俺も無理した。お前も無理した。俺も恥を見せた。お前もうろたえて恥ずかしい面を俺に見せた。これは根が深いぞ。そこまで見せ合えた仲やもんな」
「見事な解説やな」
「人ごとみたいに言うな。俺とお前の関係は、本来の友達ではないのかもしれん。俺はそれほど友情は感じてない。お前もそうやろ」
「うん」
「恥ずかしいけど、俺は今でもお前と共犯関係を続けたいと願ってる。恥ずかしい話やけど、俺は弱い人間や。同じような人間に横にいてもらいたいんや。俺、今、ものすごい恥をお前に語ってるんやぞ」
「要するに、章ちゃんとの結婚か」
「俺のためやない。俺のためかもしれんけど。お前も望んでることやろ」
「その前に就職せな」
「お前がその気やったら俺が就職先探したる」
「相変わらず、僕ら変な関係やな。これ友情と言うのかな」
「どうや、その気にならんか」
「アカンのや。章ちゃんはもう、ちょっと違う感じになってるのや」
「章ちゃんが問題やない。お前が問題や。お前さえその気やったら、知子もおるし……。章ちゃんのこと好きやろ」
「よう分からんようになった」
「何が分からんのや、何が」
 もうひと組のアベックが席を立ち、勘定を払って出て行った。
「仕事のことも、章ちゃんのことも、どっちもよう分からんのや」
「哲学してる場合か。目を覚ませ。どうせ昼まで寝てるのやろ。普通の時間帯に起きて、普通の生活始めたら現実が戻ってくるはずや」
「僕、最近やる気がないというか、トルクがないというか。変なんや」
「病院行ったか」
「いいや」
「薬で治るぞ」
「考えとく……」
   *
 渋滞を抜けると大阪平野の外に出ていた。
 目的地を持たない走り方だった。大阪平野の中では季節のことなど頭にないが、平野を抜けると季節を感じる。街中では見るもの感じるものが多いので、季節への注目度が薄いのだ。既に紅葉の季節になっている。山間の日陰を通過すると、肌寒く感じる。秋の匂いがする。何が匂っているのか分からないが、秋を感じさせる匂いがある。
 スクーターは風を切って走る。空気の中に強引なスピードで突っ込む。このスピードは自分の両足だけでは体験できない速さだ。生身の人間が不自然な速さで移動していることになる。
 目的地のない走り方をしているようでも、それなりの舵取をして方向を選択している。僕は少しでも街の匂いのしない場所を通過したかった。大阪平野のことを忘れてしまえる場所に身を置きたかった。
 何処をどう走り抜けたのか猪名川町に来ていた。大阪市内への通勤圏の北限だ。
 スクーターを降り、自販機でミルクティーを買って飲む。
 猪名川町を抜けてからはクルマの数が減り、前方にも後方にもクルマの姿は見えなくなる。あまり行き来することがないのだろう。舗装された道がもったいないように思える。奥へ進むにつれ、今度は田畑が少なくなっていく。
 スクーターのスピードが落ちる。坂を登り始める。篠山の街に出るには山を越える必要がある。坂が続き、カーブが多くなる。次々とコーナーが出現するため、ハンドル操作で忙しい。
 カーブを何度も曲がるうちにコーナーリングのコツが分かってきた。調子が出てきたあたりで峠を越えた。これで篠山市に入ったことになる。
 コーナーは登りよりも降りのほうが難しい。スクーターにはエンジンブレーキがないため、ブレーキをかけながら降ることになる。
 降りカーブを曲がるとき、対向車線に出てしまった。次のカーブもスピードに乗りすぎて曲がりきれず、バイクを傾けた状態でブレーキレバーを引いた。転倒しなかったが曲がりきることもできなかった。
 次の右カーブは大した角度ではないと思ったので、それほどブレーキを引かなかった。ところがコーナーが長く、直線が見えない。まるで円を描いているようなカーブだった。体重を右に乗せ、スクーターを傾けた。それでもカーブから抜け出せない。コーナーを目で追うと、このままでは曲がりきれないでガードレールにぶつかることが分かった。ブレーキをかけようとしたが路肩に砂が浮いているので、ズズズとスリップし、そのまま転倒してしまいそうだ。転倒するかガードレールに激突するか、どちらかを選択しないといけない。結局僕は急ブレーキを避け、じんわりとブレーキを引きながら極限状態までスクーターを倒した。前方に白いガードレールが迫った。
 ところが、ぶつかるはずのガードレールが急に消えた。ガードレールが途切れているのだ。僕は転倒しなかった。またぶつからなかった。獣道のような小道に入り込んだのである。
 危機を脱したものの、ショック状態が続いていた。ボーとした状態で小道を降る。バイクをぶつけなくてすんだこと、怪我をしなかったことでほっとした。
 不思議な道だった。ハイキングコースならスクーターが通れない場所に出る可能性が高いのだが、それがないし、道しるべの一つぐらいは発見できるはずなのに、それも見あたらない。これなら篠山まで降って行けるかもしれない。しかし、通れない場所に出た場合、今来た道をそっくりそのまま登ることになる。
 近くで水の音がする。道のすぐ横に川がある。道幅が広くなり、四輪車でも通れそうだ。
 舗装された農道が現れてもおかしくないが、道は相変わらず家族向けハイキングコースのままだった。さらに進むと、見晴らしがよくなった。渓谷の幅が広くなった。桃色の花を咲かせた木が山の斜面に朱をさすように咲いている。
 僕はちょっとした間違いに気づいた。それは川の流れである。僕は川の上流に向かって走っている。これなら奥へ向かってしまう。しかし、上流へ向かうほど道幅が広くなり、風景も広がりを見せている。 
   *
 山の斜面に藁葺の家を発見した。村落に入ったのだ。
 僕はもっと迷いたかった。いつまでも丹波山中を彷徨い続けたかった。その期待を延長してくれるような雰囲気がこの場にないわけではない。この村落の雰囲気が少しおかしいからだ。僕はその原因を探ろうとした。
 コーナーで曲がり損ね、飛び込んだ小道がこの村と繋がっていたのだが、その小道がどうもおかしい。スクーターで簡単に降って行けるような山間の小道などあるだろうか。事故になるところが助かったので、考えるゆとりがなかった。助かったことだけで気持ちが一杯だった。
 今感じている妙な感覚は、まずタイヤから伝わる。最近ではどんな狭い村道でもアスファルト舗装されているものだ。ここは確かに草深いことで有名な丹波山中だが篠山の街はすぐ目と鼻の先で、とんでもない山奥ではない。
 僕はうまい説明を思いついた。この村は廃村なのだ。だから田がない。この季節なら稲の穂が実っているはずなのに、雑草が生い茂っている。
 さらに村に入って行くと、小さな家が点在していているのが見える。
 桃に似た花が咲いている。今は秋だ。桃の花が咲くわけがない。一体何の木だろう。
 それと先程から気になっているのだが電柱がない。どんな僻地でも電柱ぐらいあるはずだ。
   *
 その家は道か引っ込んだ場所にあった。僕はスクーターのアクセルをゆるめながら枝道に入った。
 人がいた。若い女だ。彼女は井戸の滑車を操る手を止め、僕を見た。彼女はそれほど驚いていない。僕は井戸の前でスクーターを止めた。
「水をもらえますか。その井戸水でいいですから」
「お茶をいれましょう」
「いや、いいです」
「そうおっしゃらないで、久しぶりですから」
「何が久しいのですか?」
「訪ねてくる人」
「聞きたいことが、いろいろあるんやけど」
「座敷に上がってくださいな。どうぞ遠慮なさらず」
 僕はお茶を飲みながら、キツネにだまされた状態を想像した。大阪では見かけない、いや今の時代には存在しないような美女だった。この村の事情よりも、彼女の事情を知りたい。
 お茶はお茶だった。茶碗も茶碗だった。どう見ても現実の物だ。現実の感触が確実に存在している。彼女は何者なのだ。僕はたまらなくなって聞いてみた。
「ここは篠山の近くですか」
「はい」
「篠山の街を知っているのですね」
「はい」
「篠山市街はどんな街ですか」
「クルマが多くて歩きにくとか……」
 やはり、この場所と篠山とはつながっているのだ。
「ここはどこですか」
 これがいちばんダイレクトな質問だ。
「桃の里」
「あなたの名前は」
「綾乃」
 僕は、ここが桃の里であり、目の前にいる和服姿の美女の名前聞いたとき、何かを覚悟しなければいけないことを悟った。こんな場所にいる僕自身が実は危ない存在なのだ。この場所もおかしいが、この場所に来てしまえる僕もおかしいのだ。
「桃の花がずっと咲いているから桃の里なのです」
 秋に桃の花が咲いているわけがない。
「ここはどういう場所なのですか」
 これ以上ダイレクトな質問はないだろ。
「桃源郷だと思います」
 彼女の答え方もダイレクトだ。
「綾乃さんは桃源郷の意味を知っていますか」
「仙境です。詳しいことは分かりません。私もあなたのように迷い込んだのです。私、年をとらないんです。この里に来てから」
「いつごろ来たのです。江戸時代とかじゃないでしょ。明治ですか。大正ですか」
「終戦後です。この里に来たときは驚きました。お侍さんが歩いてました」
「綾乃さんは、どうしてここへ?」
「今では忘れてしまうほど昔の話。私、新橋の置屋の娘なんです。でも、本当にそうだったのかな……と、思ってしまう。東京にいた頃が夢みたい。本当はこの里のほうが夢なのにね。東京にいた頃の私が他人のように思えてしまうの……ここに長くいるから。ここにいると時間を感じないの。でも、時間が流れていくのが何となく分かるの。
「つまり、ここから出られないのですか」
「出ないだけ。出たくないだけ。戻りたくないだけ」
「僕もそういうふうになるのかなあ」
「きっと、そうなると思うわ」
「置屋って、その芸者さんとかの」
「そう」
「あなたは?」
「僕は、フリーター。あっ。つまり、バイト。いや、分かりやすく言えば手伝い屋さんのようなもので」
「あなた大阪の人でしょ。訛で分るわ」
「そうですか」
「大阪弁が聞きたいわ」
「相手が大阪の人やないと、大阪弁はどうも喋りにくい」
「そう……。で、どうしてこちらへ?」
「別に桃源郷を目指して篠山まで来たわけやない。道に迷って……」
「旅行中だったの」
「まあ、そんなところか」
「綾乃さんは?」
「失恋したの。彼の実家、篠山だったの。篠山に帰ってると聞き、追いかけてきたの。でも会ってもらえなかった。それで死のうと思ったの。山の中で死のうと思ったの。すると、いつのまにかこの里に入ってたの」
「ここ、もしかして死後の世界ではないでしょうね」
「かもしれないわ。だって、ここにいると年をとらないもの。でもマイケルは死後の世界じゃないって言ってるわ」
「マイケル?」
「アメリカ人。B29に乗ってた軍人さんよ。この里に落ちたの。他の人は死んじゃったけど、マイケルだけは生きてたの」
「そのマイケルはまだいるの?」
「近くに住んでるわ。最近会ってないけど、日本語を教えてやったわ」
「何人ぐらいいるの」
「はっきりとは分からない。あまり顔を合わせない人もいるから。……心配しないで、あなたさえ里の人に乱暴しなければ、大丈夫だから」
「僕はどうすればいいのかな」
「どうするって」
「どんな態度をとればいいのかな」
「出たい。それとも住みたい」
「両方」
「それじゃ、しばらくここに滞在する?」
 僕は桃源郷を見つけたスケベ爺の心境で、綾乃の家に住む事に決めた。
「単純な質問をしていいかな」
「どうぞ」
「綾乃さんが着ているその着物や帯や、台所の鍋や窯は、この里で作った物なのかな」
「調達しに行く人がいるの……町へ」
「それを聞いて安心した」
 夜になった。桃の里にも夜があった。昼と夜があるのだから、時間が存在することになる。だが、桃の花が年中咲いているらしい。季節は止まっているようだ。
 夕食は粥で、サツマイモと白菜が入っていた。
「米はどうしてる。梅雨や夏がないと稲は育たないと思うけど」
「米は作っていないわ。でもサツマイモや白菜も里のものよ」
「食料は自給自足でやっていけるわけか」
 綾乃は水屋からインスタントラーメンやレトルトカレーを出してきた。製造年月を見ると最近のものだ。
「欲しいものがあれば言ってね。貰いに行くから」
「バイクのガソリンとかは?」
「町にあるものは何でも調達できるわ」
「買い出しに行く人がいるわけか」
 綾乃が布団を敷いてくれた。
 疲れていたのだろう。布団を被ると僕はすぐに寝てしまったようだ。
 どれぐらい眠ったのか分からない。目を覚ますと、僕の横に綾乃がいた。
「起こしたかな」
「ああ」
「このまま寝る。お風呂にする?」
「疲れてるから寝る」
「そう」
 月の光が差し込んでいる。綾乃の体温が伝わってくる。
   *
 全てが一新するような朝を迎えた。
 味噌汁の匂い、まな板の音。非常にありがちな朝の一瞬なのだが、僕はそれを素直に受け入れた。布団から出るとき、何も着ていないことに気づいた。いくらここが桃源郷でも、丸裸で過ごすほど暖かい場所じゃない。
 足元に浴衣が置いてある。さっそく袖を通す。しかし、パンツをはかないと落ち着かない。
 いつもの僕らなら、起きるとすぐに便所へ行く。
「あのう……」
「あら、起きたの」綾乃の声が土間から聞こえる。
「便所はどこかな。それと、僕のズボンにタバコとライターが入っていたんやけど」
「厠は庭側の廊下の突き当たり、タバコは机の左側の引き出しの中、灰皿代わりのお皿が机の上にあるわ」
 座敷を見渡す。思っていたよりも広い。畳を数えると十二枚ある。座敷机の引き出しを開けると確かにセブンスターと百円ライターが入っていた。バイクのキーや財布も見つかった。
「鞄は押入の下の段にあるから」
 僕はタバコに火をつけ、廊下に出る。廊下ではなく縁側かもしれない。
 シンプルな便所だ。床に板が張られ四角い穴が空いているだけ。便器の蓋を取ると、懐かしいような匂いがした。
 厠を出ると目の前に真鍮の水桶がぶら下がっていた。桶の下に突起があり、それを押すと水がこぼれ落ちた。その横にタオルがぶら下がっている。
 座敷に戻ると、布団が片づけられ、お膳が二つ出ていた。
「お口に合うかしら」
 白いブラウスと紺のもんぺ姿の綾乃が給仕してくれた。味噌汁の具はジャガイモと大根で、小皿には白菜の漬物にチリメンジャコが乗っていた。釜炊きのご飯を食べたのはこれが初めてだ。ご飯がこんなに美味しいとは思わなかった。
「おいしい」思わずそう声に出してしまった。
「ありがとう。やっぱり食べてくれる人がいると楽しいわ」
「こんな待遇、許されるのかな。僕のようにこの里に迷い込んだ人がいて、僕と同じように君と出会ったとして、その、僕と同じように……」
「分からない。だって、訪ねて来たのは、あなたとマイケルだけよ」
「マイケルもここに泊まったのか」
「うん。でもマイケルは特別な人だった」
「何が」
「会えば分かる。あなたを気にいるかもしれないわ」
「つまり、あれか」
「そう」
「じゃあ、あまり外部の人間は訪ねて来ないわけか」
「だって、ここ仙境でしょ。隠れ里なんですもの、見つける人いないわ」
「僕はどうして来れたの」
「知らないわ。私の次に新しいのがマイケルで、その次があなたよ」
「宝くじより打率が低い」
「やっと来てくれたのね。江戸時代にここに来たヨシさんなんて、明治時代に清造さんが来るまで、ずっと待ったのよ。それに比べると私は恵まれている。早い方よ。二人は仲良くしないといけないのよ。後がないから」
   *
 朝食後、僕はスクーターで里の探検に出た。まず心配なのはガソリンの補給とタバコだ。僕は一日一箱半タバコを吸う。この里で手に入るとは思えない。ガソリンやオイルがなければスクーターが使えない。燃料メーターを見る。残りのガソリンは三分の一。
 道は一本道だが、たまに枝道がある。ちょっと走ると左側に丸太造りの家が見えた。枝道の坂をエンジンを噴かせて登る。マフラーから白い煙がたくさん出た。里の空気を汚してしまいそうだ。
 エンジン音を聞こえたのか、丸太小屋からマイケルらしい外人が出てきた。
「こんにちわ。こんにちわ」マイケルが笑顔で声をかけてきた。
 丸太小屋の中に入る。木製の机や椅子やベッドがある。マイケル手作りの家具かもしれない。
「コーヒー、それとも、紅茶」
「コーヒー」
「インスタントね、かまわない?」
「かまわない」
 マイケルはアルコールランプに火をつけた。
「それはどうしたの」
「彦造さんに、調達、して、もらいます。私、コーヒーと紅茶、ないと、暮らせない。彦造さんに、毎月、調達、してもらって、います」
「タバコやガソリンも手に入るかな」
「入ります。でも、あまり、古い、タバコは、駄目」
「B29に乗ってたと聞いたけど」
「誰に」
「綾乃さん」
「そう、綾乃さんの家にいるの。あなた。そうだ。あなた、名前、何?」
「青沼俊介」
「しゅんすけ、あおぬまね。じゃ、しゅんすけと呼ぶね」
「綾乃さん。喜んでた?」
「あ、ああ……」
「男来たから、きっと、嬉しいはずね。しゅんすけ、脱げられなくなるよ。綾乃さん、ずっと待ってたから」
 マイケルに炒れてもらったコーヒーを飲む。喫茶店がわりに利用できそうだ。
「ここの生活は快適ですか」
「のんびり。快適か、快適でないか、考えないほど、のんびり」
「アメリカへ帰りたいと思ったことはないの?」
「最初ありました。ここに来たとき、まだ、戦争中。私、大阪、空襲に、来ました。高射砲に当たるとは、夢にも、思いませんでした。パラシュートで脱出。着地した場所がここ。捕虜になると、殺される。だから、この里に、隠れた。でも、ここ、隠れ里。隠れなくても、見つからない。戦争終わったこと、彦造さんに聞きました。そのとき、里から出ようとしました。でも、出られなかった。出ても仕方ない。面倒、嫌です。ここ面倒ない。私、軍隊に、戻りたくない。アメリカにも、戻りたくない。私、身体、丈夫ない。パパもママもいない。国、帰っても、叔父さんの家。叔父さん、私、嫌い。叔父さん、私、嫌い。この里の人、いい人。この里、私、好き。私、愛されている。だから、私、里の人、愛します。だから、もう出たくない。ここでいい。私、ここの生活。馴染んだ。もう、外の世界、戻る元気、勇気、ない。しゅんすけ、分かる? しゅんすけも、隠遁者。隠遁者、希望している。そうでしょ?」
 そういえば、僕も逃げだそうとしていた形跡がある。スクーターで目的もなく走った。現実から逃げだそうとしてたのは確かだ」
「ここにいると、浮き世、忘れ、淡々と、ただ、淡々と、生きていけます」
「つまり、自分について考えたり、生活について考えたりしなくなるのかな」
「悟り、一歩手前、境地だと、春麿様、おっしゃる」
「ハルマロ?」
「はい、この里、開いた人です。春麿様、神ではありません。仙人様です」
「仙人」
 これ以上聞き出すのが怖いような気がした。この里でいずれその仙人と接触するだろう。
   *
 マイケルの丸太小屋から山の中腹まで細い山道がある。マイケルが作った道だろうか。僕はその坂道を登った。高い場所から里の様子や、さらに山の向こう側を見たいと思った。
 山頂近くまで登ると、里は完全に見渡せた。戸数は数十軒。結構多い。綾乃の家は渓谷の端に見える。昨日僕が走った小道も見える。その道を逆に走れば外界に戻れるはずだ。何も山を越えて渓谷の外に出る必要はない。
 道は里を貫通している。その先を目で追うと、渓谷の袋小路で道は終わっている。
 この位置からは渓谷を囲む山しか見えないので、峰まで登ることにした。笹の葉や小枝をかきわけながら頂上へ出たが、樹木に遮られ、見晴らしがきかない。
 大きな岩によじ登る。里の向こう側の山々も見える。反対側も似たような山々が連なっている。だが篠山市街は見えないし、道路も見えない。高圧線の鉄塔も見えない。渓谷の外に出ても、現実の世界は隠されたままなのだ。これは丹波山地ではないようだ。鉄塔のない山々の風景は時代劇の撮影にはもってこいだが、鉄塔が消えてしまった風景は、現実が消失したことを確認する怖い風景なのだ。
 遠くに異様な形をした山塊が見える。鬼でも住んでいそうな風景だ。「えらいところに来てしもうたな」と、僕は呟いた。
   *
 マイケルの声で目が覚めた。そこは綾乃の部屋だった。僕はまだ桃の里にいるのだ。二日前、里の外を見たショックから立ち直っていない。
 土間でマイケルと綾乃が何やら話している。マイケルが座敷に入ってきた。手に紙袋を持っている。
「昼寝、ですか俊介さん」
「何時かな?」
「三時」
「ここにも時間があるのやな」
「あります。でも、季節はいつも春。だから、日の出は、いつも同じ、日没も、いつも、同じ。太陽、見てると、時計いらない」
 僕はマイケルの腕時計をのぞき込んだ。プラスチック製のデジタル時計だった。
「月はどう?」
「月の、何が、どう?」
「月の形とか、星の運行とかは、どう?」
「月の形、変わらない。星、いつも同じ場所、出ている」
「マイケルは、ここが異常な場所だというのを理解してる?」
「しています。ここは、特別な場所」
「平気で、よく過ごせるなあ」
「慣れです。慣れ。住めば都。住めばそこが真ん中」
「僕も慣れるかな」
「慣れるよ慣れるよ」
 綾乃がお茶を運んできた。
「綾乃さん、俊介さん。お似合いね。綾乃さん、たまに俊介さん、貸してね」
「駄目ですよ。この人、その趣味ないから」
「残念。いいです。私、待ちます。きっと、私の良い人、迷い込むはず」
「竹さんが、いるじゃないの」
 マイケルは一瞬沈黙した。
「そうだ。忘れた。俊介さん。煙草、持ってきた」
 マイケルは紙袋からセブンスターを取り出した。二十個ぐらいはある。紙袋には京都タワーのイラストが書かれていた。
「彦造さんが調達してきてくれたんやな」
「最近は、自販機で、買ってる、ようです」
「彦造さんは、どうやってこの里から抜け出すのかな」
「私、知らない。綾乃さん、知ってる?」
「知らないわ」
「二人とも、この里から出たいと思ったことないの?」
 綾乃がクスッと笑った。
「私、死んだも同然なの。自殺するつもりで山の中に入ったんですから」
「そんなこと人前で平気で喋れるの」
「マイケルは知ってるからいいの。里の人もみんな知ってるわ。秘密じゃないから」
「つまり、生き返りたくないわけか。君は」
「だって、私、向こうの生活とはもう合わないわ。」
「マイケルはどう?」
「私、ここ、日本の天国と、錯覚したよ。私、死んだと思ったよ」
「ちょっと、待って……。ここは死後の世界かもしれない」
「私達生きてるわ」
「そうです。私達生きてます。私達、ホトケじゃありません。ちょっと、変な場所だというだけです」
「ちょっととは思わんけどな……。かなり、変な場所やで」
「そんなこと、長い間、考えたことなかったわ」
「この前、里の外を見た」
「山に登ったの?」
「この里の周囲は、山が広がっているだけやった。あの風景、いったい何や?」
「俊介、山越えるの、危ないよ。里から出るの、危ないよ。戻れなくなるよ。私、一度、遠くまで行ったことある。怖かったよ」
「あの山々はどこの風景なんや? マイケル」
「知らない」
「里の人は、何と言ってる」
「春麿様は、外界、だと」
「外界」
「よしましょうよ、外の話は」
 綾乃は不安そうな目で僕を見た。
「ここにいると、安全だから、ここにいると大丈夫なんだから。何も心配することなんてないの」
「マイケルはどう?」
「私も、綾乃さんと、同じ。生きて暮らせるだけで、十分」
「里の人達も、みんなそんな感じか」
「俊介、ここに来れたこと、幸せと、思うようになる。選ばれた人、運がいい人」
「桃の花が咲き乱れ、年中春の桃源郷か……ここは」
「それに俊介、綾乃さんがいる。私より幸せ。俊介さん来て、綾乃さん、もっと幸せ。私、まだ待たないと、いけない」
「動くに動けんのやから、ここで暮らすしかないか……」
   *
 ランプの光のためか、綾乃の肌が赤く見える。綾乃の熱と僕の熱がぎこちなく接触した。
「ポカリスエットを冷やしてたの。持ってくるね」
「ああ」
 部屋に大きな影が動いた。綾乃がランプを持って土間へ向かった。
「このままでいい?」
 僕はポカリスエットを缶のまま飲んだ。
「街の人は、このまま飲むのね」
「コップ使って飲む人もいるけど」
「街に帰りたい?」
「さあ」
「隠れたがってる人が、この里に入れるみたい」
「えっ?」
「みんなに聞いたわけじゃないけど、みんな隠れたがってるの」
「僕もか?」
「逃げたいと考えない?」
「何から?」
「世間から」
「ここは隠れ家か」
 僕はポカリスエットを飲み干した。
「毎日こんな生活でいいのかな」
「こんな生活って?」
「何もしないで暮らすような」
「手伝ってくれるでしょ」
「何を」
「畑」
「畑?」
「この里、稲は駄目なの。でも野菜は育つの。春野菜なら大丈夫なの」
「作ったことない」
「大丈夫、簡単だから」
「種も街から?」
「彦造さんが、面白い種を持ってくるの。育たないこともあるけど。……例えばレタス」
「野良仕事か……。素朴でいいかもしれんな」
「読みたい本があれば言ってね。雑誌も手に入るから」
「彦造さんはどんな人」
「兵隊さん」
「彦造さんも迷い込んだわけか」
「そう」
「怖い人?」
「臆病なおじさんよ。南方へ出兵する前に逃げたの」
「挨拶回りとか、そういうこと必要かな」
「かまわないわ。私もそうだけで、他人と関わりたくないみたい。静かに暮らしたいみたい」
「君は一人で暮らしたいの」
「相手がいるほうがいいわ。マイケルは一人暮らしだけど、相手がいないだけなの。彦造さんなんて、凄い美女と暮らしてるわ。黒船が来た頃の人だけど」
「春麿は?」
「仙人よ。この里の主よ。森小路春麿って言うの。お爺さんよ」
「その人に挨拶すべきだろうな。僕は新入りなんやから」
「会えるかな。最近見かけないわ」
「この里で一番権力のある人やろ」
「里一番の隠遁者」
 僕は座敷机に手を延ばし、タバコをつかんだ。
「里の人は集会とかはしないのか?」
「何の集会」
「五十人ぐらい住んでるやろ」
「そんなにいるかしら」
「屋根を数を数えたら五十近くあった」
「空き家も多いのよ」
「それでも、それだけの人が住んでるんやから秩序を維持するためルールを決める必要があると思うけど」
「何を決めるの」
「例えば隣の土地との境界線とか」
「お隣さんと話し合えばすむわ」
「話がこじれたら?」
「みんな遠慮がちなの。権利を主張したりしないみたい」
「喧嘩とかはないの」
「あるわ。でも、小さな里なんですもの、仲良くしないとやっていけないでしょ。それに先が長いんだから」
 綾乃の話を聞いていると、この里の人は内気で気が弱くて、人間関係が苦手な人ばかりが集まっているようだ。つまり共同生活が苦手なのだ。そういえば僕もそのタイプの人間だ。
「ランプ消すね」
「ああ」
 僕は、タバコをもみ消した。
   *
 庭に小屋があり、その中に農機具が入っていた。僕はとりあえずクワを取り出し、庭に立った。
 しかし庭といっても、何処から何処までが庭なのか、分かりにくい。綾乃の家に隣接している家がある。だが、庭か空き地か農地か分からないような場所で隔てられているため、はっきりした境界線がない。江戸時代に迷い込んだらしい土井多聞と、旅芸人のお糸さんが一緒に暮らしているという。先に迷い込んだのはお糸さんで、そのあと多門さんが来たようだ。ちょうど僕と綾乃の関係と同じ。この種のカップルがこの里では多いらしい。つまり、ツガイで暮らしている。
 綾乃が作っている畑は小さなもので、家庭菜園の一区間ほどしかない。ナスビが二十センチほどに育っている。ネギも植えている。綾乃の希望は朝の味噌汁に入れる野菜のバリエーションを増やすことだ。僕はサツマイモ畑を作ることにした。
 畑の側に大きな桃の木があり、商店街の造花のような薄ピンク色の花を咲かせている。僕は草を抜いた。小石も転がっているし、身長を越える草もある。
 里の人間は年をとらないのだから、草や木も年をとらないはずだ。それなにどうしてナスビが実るのか。ネギが育つのか。ある程度成長し、それから止ってしまうのか。
 僕には里の人が年をとらないことの説明できないし、里の外の風景も説明できない。綾乃やマイケルは、そのことに疑問を抱かないようだ。B29の搭乗員だったマイケルなら、それなりの教育を受けているはずだが。
 しかし、今僕の目の前にある現実は、サツマイモ畑を作ることで、この里のメカニズムを探求することではない。目の前の現実を受け入れるべきだろう。少なくても里の外は人間が住めそうな場所じゃない。ここで暮らせるだけでも有り難いと思うことだ。
 草を引っこ抜いた勢いで尻もちをついた。桃の花が咲き、その背景に青い空が広がっている。まるで童話の世界にいるようなシーンだ。
 森小路春麿が開いた仙境に僕は迷い込んだのか……。すると、ここは森小路春麿のイメージの世界かもしれない。そしてその中に入ってしまった僕らは……やめよう……これ以上里のことを考えるのは。ここは桃源郷なのだ。綾乃と一緒にいつまでものんびりと暮らせばいいのだ。理想の世界だと考えると、理想がすぐにでも崩れてしまう。だから、この里が理想的だとは思わないことだ。この里は僕がそっと扱えば、そっと反応してくれそうだ。
 草をむしり終えたあたりで昼になった。綾乃が竹の皮に包んだオムスビとウーロン茶のアルミ缶を運んできた。綾乃はタオルで姉さんかぶりをしている。農家のオバサンがよくやるスタイルなのだが、若い綾乃がやると野良着とは思えなくなる。
「サツマイモをいっぱい作ってね。サツマ汁を作るから」
「ああ」
 綾乃が濡れた手ぬぐいを差しだした。まるでスナックでおしぼりを受け取るような雰囲気だ。
「塩や醤油はどうしているの?」
「何でも手に入るって言ったでしょ」
「サツマイモも手に入るわけや」
「でも、あなたが作ったサツマイモのほうが美味しいと思う」
「そうか」
「あなた、この里の事を気にしてる?」
「してる……。君はしないのか?」
「どんなこと」
「つまり、この里はどうして存在しているとか……。どうして、この里では年をとらないとか、里が何かの拍子で消えるんやないか……とか」
「そんなこと私、考えたことない。おかしい?」
「おかしい。考えないほうがおかしい。足元がないよいような場所でサツマイモ畑を作っているのが、我ながらおかしい」
「俊介さんは、元気なの、ゆとりがあるのよ」
「ゆとり……?」
「この里の人、どういうのかな……元気のない人ばかりなの」
「つまり、性格が閉鎖的で消極的で隠遁願望の強い人しかいない里なわけか」
「そう、世捨て人の集まり」
「だから、詮索しないわけか」
「この里でしか暮らせないのよ」
「そういうことか」
「俊介さんもこの里でしか暮らせない人」
「そうかもしれんな……」
 だが違うかもしれない。……確かに僕は就職していない……フリーター暮らしだ。章子とも結婚できないままだ。それでも就職する気はあるし、章子と結婚する気もある。全てに嫌気がさして消極的な態度でいるわけではない。やる気があればやればいいと人は言う。やらないのはやる気がない証拠だと決めつける。僕は厭世者や隠遁者ではない。そこまで重いものは背負っていない。
 僕はまだ脂ぎったものが残りすぎている。この脂をサツマイマ畑の肥やしにすればいいのかもしれない。
 座敷にはカレンダーがない。日にちを気にするような生活をしていないのだから、いらないようだ。
 サツマイモ畑を作り出してから二日目なのか三日目なのかが思い出せない。里に来てから記憶力が弱くなったわけではない。街での記憶は鮮明に思い出せる。
 野良仕事を終えてから夕方までの時間は座敷机の前で本を読むのが日課になった。この本はショルダーバックに入れていた文庫本だ。
 座敷机の上に硯箱が置いてある。綾乃の習字の道具だ。映画のセットのような家で、生活臭さがない。
「彦造さんに本を頼めるかな」
 綾乃は昼寝をしていたが、僕の声で起きてきた。
「本の名前を何かに書いて、彦造さんに渡せばいいわ」
「お金は」
「いらないわ」
「彦造さんとは、どこで会えるのかな」
「急ぐのなら、里の真ん中に大きな杉の木があるからその下の倉へ行けばいいわ。彦造さんの家よ」
 綾乃が体を起こそうとしたとき、ブラウスの隙間から白い胸が見えた。僕は思わず抱きついた。綾乃の頭が縁側に出てしまう。綾乃の首筋の向こうに畑や家や里の山が見えた。桃の白い花が眩しかった。
 そのあと、綾乃は本気で眠ってしまった。僕は、杉の木の下の彦造さんの家に行くことにした。
   *
 一本の道が里の入口から奥まで貫いている。僕はスクーターで綾乃の家を出たのだが、途中で引き換えした。ガソリンが少なくなっていることもあるし、スクーターで走るほどの距離ではないと思ったからだ。
 スクーターを井戸の横に止め、シートボックスからショルダーバックを取り出し、再び一本道に出た。
 丸太小屋が見えてきた。マイケルに会いたかったが、話し込んでしまいそうなので、そのまま通過した。ここから先へはまだ足を踏み入れたことがない。
 里の一本道は緩いカーブを描きながら延びている。道の左側のほうが家が多い。右側は平坦地なので畑がある。里の中央部へ行くにしたがい屋根が多く見える。右側の斜面にも屋根は確認できるが、左側より少ない。竹で屋根を葺いた家が見える。そのあたりはすぐ下に川が流れており、斜面も険しそうだ。
 丸太小屋を通過し、しばらく歩くと杉の木が見えた。絵に書いたような見事な一本杉だ。
 前方から侍が歩いてきた。僕は対応の仕方を考えていると、侍が先に目礼した。僕のほうが確実に目下なので、僕は深々と腰を折った。
「綾乃殿の御亭主ですな」
「あっ、はい」
「申し遅れました。それがし土井多聞でござる。よしなに」
「いえ、あの、こちらこそ。ぼ僕、青沼俊介と申します」
 土井多聞は前頭部を綺麗に剃っていた。時代劇に出てくる侍より髷が小さい。腰に短い刀を差している。柄の部分は白木で、鉄で周囲を補強してある。手に風呂敷包みをぶら下げている。
「失礼ですが、いつごろこの里へ?」
「元禄三年です」
 元禄といえば江戸時代の始め頃だ。数百年ここで暮らしていることになる。衣服や日常品の調達は大変だろう。
「では」と、もう一度目礼して、土井多聞は立ち去った。
 僕は杉に向かって再び歩き始めると、今度は犬が現れた。その犬はどう見ても駄犬。赤犬という言い方があるが、本当に毛の赤い犬を僕は見たことがない。だが、今こちらに歩いてくる犬は、恥ずかしいほどに赤い。山賊の髷のような見事な尻尾を垂らし、足の毛並みも不揃い。歩き方も真っ直ぐではない。この犬も里に迷い込んだのか……犬にも隠遁趣味があるのか。
 赤犬は僕の姿を発見したようだ、道の隅に寄った。すれ違い際、犬は上目遣いでチラッと僕を見た。犬の肩がどこにあるのか分からないが、確かにこの犬は肩を落として歩いている。僕が振り返ると、犬も振り返った。情けない連中ばかりがこの里で暮らしているのか。
 一本杉の下に赤土で固めた家があった。
「こんにちは」
 声をかけると、木戸が開き、ジーンズとトレーナー姿の小男が姿を見せた。彼が彦造さんか。思ったより若い。
「綾乃の家の者で青沼です」
「そうでありますか。自分は福田彦造であります。奥にいるのは貞で、一緒に暮らしております」
 彦造さんは無理に兵隊言葉を使っているようだ。奥を見ると、竹下夢二のイラストに出てきそうな美人がキャベツを刻んでいる。貞さんは彦造さんよりも年上かもしれない。
「最近来られた方ですな。マイケル君からも話は聞いております。セブンスターは足りますか。いるものがあればおっしゃてください」
「彦造さんはいつごろ来られたのです」
「戦時中であります。これでも自分は上等兵なのです。南方へ行くのが恐くて逃げました」
「奥さんは」
「貞は姑との折り合い悪く、出奔したと言うております。自分がこの里に来たとき、貞の世話になりました。その後、それが続いております。貞は自分を待っていたと申しております」
「待ってたわけやおまへんのやけど、一人で暮らすのもなんやさかい。一緒になっただけですわ」切ったキャベツを湯に入れながら貞が言う。
 僕と綾乃や、土井多門とお糸と似たパターンだ。里に来た順番は貞、彦造、マイケル、綾乃、そして僕ということか。
「あっ、そうだ。本を調達して欲しいのやけど……」
 僕は、和紙の上に極細のサインペン書いたメモを彦造さんに手渡した。
 彦造さんは眉間にシワをよせながらメモを見ている。
「見つからない場合もあります。自分は教養がないので本屋で捜し出せないかもしれません」
 僕はできるだけ手に入りやすい大手出版社の文庫本を注文していた。
「どこの本屋さんへ寄るのかな」
「篠山の道沿いに大きな本屋があります。なければ亀岡か京都まで行ったおりに捜してみましょう」
「それと、セブンスターも」
「分かりました」
「クルマで街まで行くわけですか」
「農家の軽トラックを調達しました」
「免許証とかは」
「ありません」
「捕まると、まずいな」
「一度、検問に引っかかりました。飲酒運転の」
「どうしたの」
「逃げたであります。そのときは普通車でした。それで走って逃げました。危ない仕事です。それに、街に出ると年をとるようです。半日出れば半日年をとるようです。自分はまだ若いですから、もう少し年をとりたいと思っておるのです。修行が足りんのです。貞に馬鹿にされます」
「馬鹿になんて、していまへんやないの」貞はゆでたキャベツを皿に盛りつけながら言う。
「貞は自分よりも年上であります。自分は街に出て、年を稼いで貞の年を越えたいと思うております。自分はまだやる気のあるほうなのです……この里では。だから買い出しに出かけるのです」
「調達係は誰でもできるのですか?」
「できるだけ、新しい人がやるべきだと思っちょります。江戸時代の人では買い物は無理であります。マイケルは日本のことを知りません。マイケルが初めて踏んだ日本の地は、この桃の里であります。綾乃さんも可能ではありますが、やはりご婦人では大変でしょう。それに年をとるであります。青沼さん、あなたが来てくれたので、自分は有り難いと思うております」
「しかし、僕は行き方を知りません」
「クルマの免許はお持ちですか」
「クルマは持っていないけど、免許はとりました。一応乗れます」
「それはますます好都合」
「しかし、行き方が」
「前の道を真っ直ぐ行けばいいであります」
「綾乃の家の前に出ますね」
「そこを抜けると、川に沿って道は続いております。しばらく進むと右側に小道があります。そこはクルマは通れる幅がありません。真っ直ぐ行けば沢を抜けます」
「あっ、僕、その小道から里に入ったのです。で、真っ直ぐ行けばどこへ出ます」
「村の奥であります。林道をぬけるとアスファルト舗装の村道に出ます。後は道路標識が示すとおり、国道に出よります。旧山陰街道であります」
「つまり、繋がっているんだ」
 だが、僕が岩の上から見たあの不気味な山並を思いだした。そちらへ出てしまわないだろうか。
「調達係を引き受けてくださるのなら、その旨、赤麿様に報告しておきます」
「やってもいいと思います」
「有り難いことであります。自分が段取りを教えるであります」
 僕が帰ろうとすると、貞さんが「一緒にご飯。食べましょな」と、声をかけてくれた。
「ミンチボールすぐに暖めますよってに」
「いえ、綾乃が用意していますので」
   *
 わが家に戻ると、綾乃は僕が出たときと同じ状態で眠っていた。僕が座敷に上がる気配で目を覚ましたのか、「あっ」と声を出した。
「風邪ひくぞ」
「ごめんなさい」
 綾乃は指で髪の毛を直しながら立ち上がった。
「ラーメンでいい」
「夕食か?」
「はい」
「ラーメン作るほうが、手間がかかるのと違う」
「カップラーメンだから」
「そうか」
「湯だけ沸かしてくるね」
「ああ」
「お餅を入れるね」
「ああ」
「どうしたの?」
「いや、別に……」
「彦造さんと何かあったの」
「別に」
「心配事でもあるの」
「そうやない」
「だったら、いいけど……。もしかして、私が居眠ってたから機嫌が悪くなったんじゃないかしら」
「しみじみ」
「しみじみ……?」
「里の人を見ていると、しみじみする」
「みんないい人でしょ。貞さんと会った?」
「会った」
「気さくなおかみさんだったでしょ」
「うん」
「いい里でしょ」
「ああ」
「隠れ里ですもの、みんなしみじみと生きているのよ」
 僕はしみじみすると言うよりは、悲しいものを感じている。
「あなた、顔が赤い」
「夕日のせいや」
「私も赤い」
「ああ、赤い」
「ちょっと横を向いて」
 僕は横を向いた。
「うん、その角度がいい。素敵よ、あなた」
「ライティングのせいや」
「しばらく眺めていたい」
 僕は胸が熱くなってしまった。涙が出るかもしれない。
「湯を沸かしておいで」
   *
 野良仕事で日々を過ごしていた。野菜類を栽培するより畑を広げるほうが楽しかった。何を植えるのかを決めないまま、開墾作業に熱中した。
 腰の高さぐらいの潅木を一本抜き取るだけでも、時間がかかる。草のように手で抜き取るわけにはいかないので意外と手間取る。その手間取り方を楽しんでいるようなところもある。難しく考えることなく、作業を楽しむような体験を味わうのは久しぶりだ。
 市街地で暮らしていたことが、遠い昔のことのように思える。あらゆる行為が意味だけで成り立っているような暮し方だった。立っているだけで精一杯の暮し方だった。
 草むらに寝転がり、雲を見ているとエンジン音が聞こえた。彦造さんのクルマだ。買い出しに行くのだろう。
 昼を過ぎるといつものように座敷机に肘をついて、ぼんやりしていた。綾乃はその横で繕いものをしている。
 エンジン音が聞こえ、家の前で止まった。
「今、戻ってきたところであります」
 僕は土間で彦造さんから紙袋を受け取った。
「タバコと本が入っております」
「どうもありがとう」
「お茶でも煎れますから、お座りになって」
「自分は荷物を倉に運ぶ仕事が残っておりますので、すぐに退散するであります」
「そうですか」
「それから青沼さん。里主が調達の仕事を引き受けてくれたことを喜んでおりました」
「いつでもお手伝いします」
「では次に出るとき、自分についてきて下さい。お願いします」
「里主さんに挨拶に行かなくてもいいのかな」
「かまわないであります」
「しかし、ここの住人になったのに、一度も顔を会わせてないし」
「面倒を嫌っておるのです。里主は」
「じゃあ、挨拶に行くと面倒がられるのかな」
「そうでもないと思いますが、気を使わなくてもバチはあたりませんです。里主は仙人でありますから、人と会われるのを得意としておらんだけです」
「仙人は人嫌いなのかな」
   *
 野良仕事が一段落ついたある日、僕は里主の森小路春麿に会いに行った。
 土井多門の家を右に見ながら歩いていると、犬が潅木の茂みの中から出てきた。この前の赤犬である。どうもこのあたりに犬の住処があるらしい。
 赤犬はじっとしていた。僕が赤犬に視線を合わせようとすると、赤犬は下を向いた。
 僕は赤犬のすぐ近くまで寄った。赤犬は身体を反らせながら横目で僕を見た。僕は赤犬の鼻先に手を差し出した。赤犬は一度鼻先を引っ込めたが、「よしよし」と声をかけてやると、わずかに尻尾を動かし、僕の手に鼻を近付けた。クションと赤犬はくしゃみをし、僕から離れた。そして、すごすごと潅木の中に入っていった。
 この赤犬はオスだろうか、それともメスだろうか。僕はオスだと判断した。なぜオスだと思ってしまったのか、自分でも分からない。メスだとは思えないからオスだと決めつけたのだ。
 赤犬はもう潅木の茂みの中にすっかり姿を隠し、どこにいるのか分からなくなった。僕は犬の観察はそれぐらいにして歩きだした。
 すぐにマイケルの丸太小屋が左側に目に入った。マイケルの姿も見える。
「ども、しばらくね。俊介。その後、元気?」
 マイケルは木工作業中だった。
「何を作ってるの。マイケル?」
「家具」
「器用なんやな」
「これね、この家具、椅子なのですね。頼まれてしまいました。私の家の家具は、全部揃っています。もう作るものありません」
「いるものがあれば、調達するよ」
「俊介さん、彦造さんの代わりをやる。決まったの。それはいい」
「これから、里主さんに挨拶に行くところや。マイケルは里主さんと会ったことは?」
「二回ほどある」
「どんな人?」
「忘れてしまいました」
「印象が薄かったわけかな」
「きっと、そうでしょ。それよりコーヒー炒れる。一緒に飲みましょう」
「今度にする」
「俊介さん、あまりここ、訪ねてこない。綾乃さんといつも一緒。たまに遊びにきて。でも、……いいか」
「何が」
「竹さんと暮らすかもしれない」
「竹さん?」
「川の向こうの斜面に竹で編んだ家、見えるでしょ」
 僕は、マイケルが指さす方向を見た。川の向こう側には、あまり家がない。僕もまだ向こう側へは行ったことがないのだ。
「竹さんは、鎌倉時代の人で駿阿弥さんが本名。でも、竹細工さんなので、竹さんと里の人、呼んでる。竹さんはお爺さん。だから、私、あまり好まない。でも、竹さん、私好いてくれる。私、本当は俊介のような若い人好き、でも俊介さん綾乃さんいる。私、もっと待つ気でした。でも、可能性低い。もう、竹さんでもかまわない。この家具、ダブルベッド。私、恥ずかしいもの作ってる」
 僕はどのように答えていいのか分からなかった。
「竹さんと暮らすけれど、俊介、ここに遊びにきて。いいですね」
「はい」
 丸太小屋を後にした僕は、再び里のメイン通りに戻り、彦造さんの倉を訪ねた。そして里主の森小路春麿の家を聞いた。
 僕は今まで彦造さんの倉から向こう側へ行ったことがない。倉の前に立つ一本杉がちょうど村の真ん中に位置し、その後の半分を知らない。
 この里は閉鎖されている。それだけに、里の中をあまり知らないほうがいいと思う。知らない場所があるほうが広く感じるから。
 一本杉が小さくなる場所まで来た。山が迫っている。渓谷の膨らみが終わる地点に近づいている。左右に板葺きの家が数軒見える。
 よく手入れされた畑が広がっている。畑の向こうに川が見え、向こう岸の斜面に屋根がいくつかある。その中に竹さんの家もある。
 竹さんは鎌倉時代からこの里にいるらしい。それが太平洋戦争時代B29に乗っていたマイケルと結婚することになる。閉鎖されている世界なのだが、それなりにドラマがある。
 すぐに橋に出た。川は渓谷が果てる方向へ流れている。下流が分らない。この川はどこへ流れていくのだろう。
 橋を渡ると道は二つに別れる。右へ行けば竹さんの家へ向かう。彦造さんは左へ行けと教えてくれた。その方向は里が果てる場所である。里のメイン通りの終点が里主の住む場所まで続いているわけだ。
 渓谷の行き止まりのような場所に里主の家が見えた。竹垣が施されている。単なる飾りにしか思えない。竹垣は僕の腰ぐらいの高さで、出入口は開いていた。そこだけ竹垣が施されていない。仙人のやることなので、方位的な関係で人が出入りする場所を定めているのか。僕は竹垣の隙間を通り抜けた。
 竹薮の中に屋根が見える。お堂ような建物だ。僕は聖徳太子の夢殿を連想した。
 お堂の扉は開け放たれていた。中を覗くと作業着姿の男が寝転がっている。僕の気配に気付いたらしく、仙人は上体を起こした。
「こんにちは」と、僕は挨拶した。
「ふは」と、仙人が応えた。
 白髪に白髭の仙人を想像していたのだが、意外と若い。身体も小さいが顔も小さい。
「里主の森小路春麿さんですか?」
「おお、そうじゃ」声がどこかぎこちない。寝起きのためか声が割れている。
「まあ……なんだ。上がるか」
「お邪魔します」
 畳が敷いてあるが四畳半ぐらいだ。そのため、里主と非常に近い距離で向かい合った。
「挨拶にきました」
「あっそう」
「青沼俊介と申します」
「ほう、そういう名か」
「はい」
「調達の任を引き受けて下さるとか」
「はい」
「やはり、今風のお方がいい」
「あの、里主さんはいつごろの人ですか?」
「いかように申せば分かるかな」
「当時の有名人とかおっしゃってもらえば見当がつくと思います」
「源氏かな」
「平安末期ですか」
「頼朝はご存知か?」
「すると、鎌倉時代にこの里を発見されたのですか」
「聞きたがる人やな。お前様は気丈者か」
 僕が想像していた人とは随分違っていた。この人が本当に仙人だろうか。この里の人と共通するある雰囲気を彼も持っている。
   *
 里主と会ったその晩、僕は章子の夢を見た。
 僕は駅までの道を歩いていた。真夏だった。大きな入道雲が踏切の上でまるで爆発したように浮かんでいた。章子の結婚式へ僕は向かっていた。章子が誰と結婚したのかは分からない。式場がどこかも分からない。映画を途中から見ているような感じで、それまでの経緯が分からないのだ。式場に着けば章子との関係が何とかなると思っているようだ。駅へ向かっているのだが、なかなか駅が現れない。いつもの駅が見つからないのだ。踏切から線路を見ると確かに駅はある。だが道がその駅に繋がっていない。古い商店街の中を僕は駅を探し続けた。
 そこで目が覚めた。僕は目を見開いたまま今見た夢を何度も何度も思い返した。
 タバコを吸おうと座敷机に手を延ばした。綾乃は寝返りをうった。マイルドセブンに火をつけた。
「なあに……どうしたの」
 ライターの音で綾乃を起こしてしまった。
「ちょっと、目を覚ましただけや」
「そう」
 綾乃と暮らしてしばらくたつ。だが、僕はあまり綾乃のことを知らない。あまり聞かないからだ。それに綾乃も自分のことはあまり喋らない。僕自身のことも綾乃にそれほど語っていない。この里が現実の場所ではないためかもしれない。何を喋っても何を聞いても、簡単に消えてしまいそうな気がするからだ。
 章子とはよく喋った。ちょっとした食い違いや、ちょっとしたものの捉え方の違いだけで朝方までミーティングになった。
「どうしたの? 寝ないの」
「ああ」
「眠れないの?」
「そうやないけど、ちょっと」
「考え事?」
「里主に会ったので興奮したのかな」
「変なこと聞かなかった、里主に」
「聞いた」
「どんな?」
「里のことや、里主のこと」
「答えてくれた? もう忘れてしまってるじゃないかな。長いから」
「鎌倉時代の人やった」
「平安時代じゃなかった?」
「平家側の公家さんらしい」
「それで源平の合戦で負けて落ち延びたわけ」
「君は知らなかったの」
「うん」
 僕は二本目のタバコに火をつけた。ライターの明かりで綾乃の白い顔が浮かんだ。
「退屈?」
「何が」
「ここにいるの」
「まさか」
「刺激が欲しいみたい。あなた元気だから」
「そうかな」
「あなたはこの里でいちばん元気があるの」
「僕は元気がないほうの人間やけどな」
「里から出ないで。私一人になる」
「ああ出ない」
「ほんと?」
「調達に行くけど、それは……つまり元気やから」
「大丈夫かな。外は危ないわ。彦造さんは軍人さんだから大丈夫だけど」
「外の様子は僕のほうが詳しい。僕のほうが自然に行き来できる」
「本当にここがいい?」
「うん、ここのほうがいい」
「……よかった。じゃ、今度調達に行ったとき帽子を買ってきて。大きな丸い帽子」
「麦わら帽?」
「違うわ。綿の柔らかいやつ。私も畑に出るの」
「分かった」
 綾乃は僕の胸の上に頬を当てた。僕は綾乃の髪を撫でてやった。小さい子をヨシヨシしているような感じになった。
 里を出る気はない。例えこの里が蜃気楼のようなものでも、僕を暖かく迎えてくれたこの里から出たくはない。
   *
 その朝、僕は彦造さんの軽ワゴンの助手席に乗り込んだ。
 クルマが走りだしてからも綾乃はいつまでも手を振り、見送ってくれた。やがて綾乃の姿が小さくなり、僕らの家も見えなくなった。振り返ると桃の里は淡いピンク色で霞んで見えた。
「あっ、この道」
 僕は前方に見える枝道を指さした。
「この道から僕、来たんです」
「近道ですが、クルマは通れないであります」
 軽ワゴンは枝道を通り過ぎ、川に沿って走った。つまり、上流に向かって走っているのだ。あの日、僕は街に出ようとして下流側に向かったのだが、桃の里に出てしまった。
 しばらく進むとV字形の狭い場所に出た。原生林が生い茂る谷底の道だ。
「山の奥へ入って行くようですね」
「そうであります」
「彦造さんはここを何度も往復しているわけですね」
「勝手知ったるわが家の庭であります」
 軽ワゴンの揺れがひどくなる。スピードメーターを見ると十キロしか出ていない。
「ここが難所であります」
 軽ワゴンは川底を走っていた。
「すぐ抜けるであります」
 左側に大きな岩が見える。
「あそこに大きな岩がありますね」
「天狗岩であります」
「でも、天狗の形をしていませんが?」
「天狗の昼寝のための寝台であります」
「彦造さんは寝ているところを見たことがありますか」
「里主が適当に名付けただけであります」
「別に伝説とかはないわけか」
「そうであります」
「彦造さんは里の外でもそんな兵隊言葉を使うのですか」
「不審がられるので使いません。ですが、この言葉が私に一番あっておるのです。このほうが喋りやすいのであります」
 川底を通過すると開けた場所に出た。砂地が広がっている。洞窟の中で広場を発見したような感じだ。
「里主の話では、昔ここは池でした。ちょっと休憩しましょう」綾乃と別れてからまだ半時間も走っていない。
 僕は軽ワゴンから降りた。すり鉢の底のような場所だ。
「雰囲気がちょっと違いますね」
「ここは里の端っこであります」
「ここも里の中なのですか」
「外ではないということであります」
 僕はどうやって外に出るのか疑問に思った。彦造さんは二回エンジンをかけなおし、砂地の上を走り出した。軽ワゴンは再び鬱蒼とした渓谷の底に入って行った。
 すると、さっき見た天狗岩が出現した。
「あの天狗岩は、さっきの天狗岩とは兄弟岩のようなものですか。ペアのような」
「同じ岩であります」
 同じ道を引き返しているような気がした。
「同じって?」
「同じではありませんが、同じであります」
「引き返しているのですか。見覚えのあるような道ですよ」
「町へ向かっております」
「すると、もう里を抜けたのですね」
「既に外であります」
 V字型の渓谷を抜けると、桃の里と似たような地形が展開している。
「ここは桃の里ではないのですか。戻ってきただけじゃ……」
 だが、綾乃の家がある場所には何もなかったし、少し走ったところで左側の斜面を見てもマイケルの丸太小屋はなかった。一本杉もなかったし、彦造さんの倉もなかった。川にかかっている橋はコンクリートで固められていた。橋を渡った後、川に沿って道は続いていて、右側にある里主のお堂がある場所は、ただの竹林だった。
 桃の里では行き止まりになっていたはずの渓谷の突き当たりがなく、川に沿って下り坂の道が続いていた。向こう側には山々が見えた。 高圧線の鉄塔が小さいながらも確認できた。
   *
 僕は自販機のアイスミルクティーを飲んだ。季節は秋だった。
「どうでありますか? シャバの味は」
「緊張する」
「シェバは鬼が闊歩しておるであります」
「鬼は僕らかもしれないな。で、今日は何を調達するのかな」
「駿阿弥さんのカマをまず探さないといけません」
「駿阿弥さんって……誰でした」
「竹さんであります。カマの歯がいけないらしいであります。百年ほど使っておったようですから」
「いろいろな時代の人がいるから、たいへんですね。時代考証の知識がいりますね」
「竹さんは気が向けば竹で細工物を作っておるようです。完成した品を外に出したがっておりまして……」
「売りたいわけですか」
「知らない人に使ってもらいたいようであります。つまり自分の芸術作品を誇示したいのです。しかしです青沼さん、あまり高い値で売れません。結局は竹ですから。竹さんの得意はザルでして、ザルはやはりザルの値でしか売れんのでありますな。まっ、とりあえずカマから調達にかかりましょうか」
 篠山町の狭い商店街の中へ入る。彦造さんはスーパーマーケットの駐車場に軽ワゴンを止めた。
「自分は竹さんの用事を片づけるので、青沼さんはスーパーで買い物をしてください」
 僕はメモと一万円札を受け取った。彦造さんは軽ワゴンの後ろを開け、ザルを小脇に抱えて商店街の中へ入っていった。メモを見ると、味噌とか、味の元とか、タオルとかが濃い鉛筆で書き込まれていた。
 ここは桃の里ではない。桃の里から抜け出している。だからここは外の世界である。この前まで僕が暮らしていた世界である。その意味で、僕は戻って来たことになる。だが、篠山の街は僕にとって馴染みのある場所ではない。旅先の風景を見ているような感じがあるので、本来の世界に戻った実感がない。
 スーパーで買い物を終えた僕は、姫路の実家に電話をかけた。
「もしもし」
「ああ、俊ちゃんやないか。どうしたんや。ひさしぶりやな。元気でやってるか」
 確かに母の声だった。母とは今年の盆に会ったきりだ。
「どうかしたんか」
「いや……」
「無いねんやろ?」
 母はお金のことを聞いているようだ。
「そういうわけやないけど」
「困った子やなあ。就職はしたんか」
「まだ……。もう少し」
「お父さん怒ってはるで」
「分かってる」
「お金のことと違うねん。電話なかったかな」
「留守にしてたんか」
「ちょっと旅行してた」
「もう、呑気なんやから」
「正月にまた帰る」
「それまでに就職しときや」
「うん」
 確かに母だ。ここは現実の世界だと僕は確信した。
   *
 僕は軽ワゴンから降りた。綾乃がすぐに駆け寄ってきた。
 運転席の彦造さんに綾乃が休憩していかないかと誘ったが、貞さんが待っているからと断り、軽ワゴンをスタートさせた。
 僕は座敷で大の字になった。
「早かったわね。まだお昼前よ」
「久しぶりに外に出たので疲れた」
「懐かしかった?」
「相変わらずの風景やな……。外の世界のほうが現実やのに、ここのほうが現実に見える」
「ねえ、どうやって里を出たの」
「真っ直ぐ走っただけや」
「そんなに簡単なの」
「誰でも出られるみたい。封鎖されてなかった」
「入るときは?」
「この里に似た沢があって、その突き当たりとこの里が繋がってた」
「知ってる。私もそこを通ったわ。もっと山の中に入りたくて、奥へ奥へ進んだの。同じ風景を二度見たの。でも私、そのとき自殺するつもりだったから、不思議だとも考えなかった。自分のことばかり考えてたのね」
「東京の両親や知り合いからみれば、君は行方不明やろ」
「そうね」
「家の人、心配していたはずやろ」
「そうね」
「この里に入ったとき、連絡しようと思わんかった?」
「思わなかったわ。どうだってよかったの。不思議な場所だったけど、それもどうだっていいと思ってたの」
「つまり、消えてなくなりたかったような感じかな」
「そう。でもここでしばらく暮らすうちに、外のことなんて本当にどうでもよくなったの。死ねなかったけど、ここで死んだように静かに暮らそうって……」
「でもここは、不老不死やろ。ずっと生き続けることになる」
「そんなことないわ。向こう岸の高い崖から飛び降りれば簡単に死ねるわ」
「そうすると、不老不死というのは嘘か?」
「自殺とかしなければ、不老不死よ」
「土井多聞の刀で斬られると僕は死ぬのか」
「さあどうかしら。そんな争い事、この里の人、しないみたい」
「うん。そんな感じがする」
「帽子は?」
「紙袋の中」
「紙袋は?」
「土間に置いたけど」
 綾乃は土間へ走った。
「あったやろ」
「うん。あった。私の帽子」
 綾乃は笑顔で顔をクシャクシャにしながら帽子をかぶった。
「わたし、どうかなった」
「何が?」
「ものすごく喜んでる。怖いわ」
「嬉しかったら誰でも喜ぶ」
「こんな感情がまだ残ってる」
「大げさな」
「怖いわ」
「それで普通や、それで」
「そうなのね。これで普通なのね」
   *
 その翌日、僕は綾乃と一緒にサツマイモ畑に出た。曇り日なのに綾乃は帽子をかぶっている。僕が開墾したサツマイモ畑は畳十枚分ぐらいの広さだった。二人で食べる分には多すぎる。
「今度外に出たとき、野菜の種を買ってこようか」
「そうね、春野菜なら育つわ」
「どちらにしても、二人では食べ切れんな」
「彦造さんの倉に置くの。そうすれば里の人が持って帰ってくれるわ。あなたのお茶碗なんかも倉から持ってきたのよ」
「そういうシステムができてるのか」
「よく知らないけど……。マイケルなんて何も栽培していないでしょ。食べるものは全部倉からもらってるのよ。そのかわりじゃないけど、椅子とか机とかを倉に持って行ってるの」
「僕は里では生産できないものを買い出しに行くことになるのやな。そのたびに年をとる」
「そう、年をとりたい人は外に出ればいいの。半日出れば、半日年をとるの」
「調達係を続けているとお爺さんになってしまう」
「でも、彦造さん、そんなに年をとっていないわ」
 僕は土の上に数字を書いて計算してみた。月に一度六時間ほど外に出たとすると、一年で七十二時間になる。三日ぐらいにしかならない。だから百年間でも三百日だ。百年間で一年間年をとることになる。彦造さんは戦争中から今日まで外に出ていたのだが、半年しか年をとっていないわけだ。
 十年間この里にいて、大阪に戻れば章子は三十六になっている。章子との関係は完全に変わってしまう。もし十年後、この里を出た場合、僕は青沼俊介としての社会生活はできなくなる。綾乃もそれを知らないはずはない。僕は綾乃を見た。綾乃は草の根と格闘していた。
 昼は信州産のざるそばですませ、僕らは散歩に出た。畑のすぐ先に川が流れているのだが、川岸まで出たことがない。潅木や雑草におおわれているため、道がないからだ。
 僕らは潅木の中に分け入った。
「君は何年ここにいる?」
「数えたことないわ。でも何十年かたっているはずね」
「毎日何をして暮らしてた?」
「覚えてない」
「起きてから何をする?」
「ご飯とお味噌汁を炊くの」
「朝食が終われば?」
「そうね、着るものを縫ったり……」
「そうか、家のことをしているのか」
「それほどでもないけど」
「退屈しない?」
「たまに隣のお糸さんが遊びに来るし、私も遊び行くわ。そうだ、川に出るのならお糸さんの家から出られるわ。寄って行きましょ」
 土井多聞の家の造りは僕らの家と同じように粗末なものだった。それでも冠木門がある。開いていたので二人は通り抜けた。
「勝手に入っていいのかな」
「いつもそうだから」
 裏に回ると手入れの行き届いた庭があった。ちょっとした日本庭園だ。
「こんにちわ」
 綾乃が縁側から声をかけた。
 障子が開き、土井多聞が顔を出した。土井多聞は僕らに軽く目礼した。あわてて僕はお辞儀をした。そして顔を上げると土井多聞は消えていた。奥でお糸さんを呼ぶ声が聞こえた。
 綾乃は縁に腰掛けた。僕にも座れと目で合図した。
「お侍さんの屋敷やろ。あんまり無礼を働くと……」
「馬鹿ね、そんな人達じゃないわ」
 しばらくすると着物姿のお糸さんがお盆を持って現れた。お糸さんの着物は綾乃がたまに着ている着物とではジャンルが違うようだ。胸もとがゆったりとしているし、帯の位置もかなり下にある。それに帯が細く裾も短い。お糸さんは髪は腰まで延びていて、後ろでくくっている。そして、名前の印象とは異なり、小太りで丸い顔立ちだった。
「あら、あなたお糸さんとは初めてだった?」
「うん」
「よろしく、お糸と申します」
「多聞さんとは?」綾乃が聞く。
「道で一度会ってる」
「旦那様はあまり人前に出られん人でして、その、恥ずかしがられるんです」
 僕はマイケルや彦造さんや貞さんまでは何とか理解できるが、お糸さんや多聞さんになると、時代劇を見ているようだ。
「マイケルと竹さんが一緒に住む話、お糸さん聞きました?」
「知りませんでした。本当ですかいの」
「竹さんは鎌倉時代のお爺さんでしょ。マイケルはアメリカ人なので、うまくやっていけるか心配だわ」
「アメリカ人から見れば、鎌倉の人も明治の人も、大して違わないと思うよ」僕は思わず口を挟んだ。
 その後、綾乃とお糸さんはマイケルと竹さんの話で弾んだが、僕は二人が喋っている風景を、おとぎ話のワンシーンを見るような思いで眺めた。
「ところで、川へ出たいんだけど、ここから行けるのかな」二人の会話が途切れたとき、僕が言った。
「旦那様に案内させますよってに、ちょっと待ってつかわっさい」
 裏庭から小道が伸びている。川岸まで続いているのだろう。
 僕らは土井多聞の後について行った。お糸さんも誘ったのだが、多聞さんが嫌がるからと断った。
 小道は多聞さんが作ったものらしい。僕らの畑の周辺と違い、同じ潅木もここでみる潅木は庭園のような趣がある。
 小道は岩や樹木の間を縫うように通っている。
「散歩にもってこいの道ですね」
「うむ」
「丹精込めて作られていて、庭の一部のようですね」
「そうか」
「よく手入れされていると思います」
「うむ、草をむしるのがたいへんでな」
「あなたも、サツマイモ畑から川までの道を作ったら?」綾乃が後ろから言う。
「僕はそこまで器用やない。それに不精者やし」
「旅芸人の小娘と暮らしておるわしを、そなたどうみる」
「えっ」
「さぞ、破廉恥な男だと思うておろうな」
「そんなこと、ありません」
「新しく来た人と出会うのが苦手でな……まあいい。わしは武士は捨てておる。わしは自害できんかった」
「はあ?」
「逃げた」
「はい」
「いつの間にかこの里に来ておった」
「いいですよ、事情を説明してくれなくても」
「意気地のない侍であることを知って欲しい。そうでないと気がすまぬ」
「了解しました」
「世が違う。そこもととは生まれた世が違う」
「はい」
「それだけでも随分助かる」
「僕は未来人ですからね」
「わしも、同じ世にまだ生きておる。生き恥を忘れるほど生きておる」
「そうですか……」
「ここは楽土だ。それを忘れてはなりませんぞ」
「はい」
「出た」
「何がです!」
「川に出た」
 いつのまにか足元が砂地に変わっていた。
 三人は岩場に腰を降ろした。よく見るとその岩は階段がついている。多聞さんが削ったものだろう。僕が不思議そうに岩の階段を見ていると、「お糸さんの洗濯場よ」と、綾乃が説明してくれた。
「多聞さんが削ったのですか」
 土井多聞は川面を見ながら頷く。
「ここは船着き場だ」
「里に舟があるのですか」
「今はない。橋ができたのでな」
「でも、舟があれば向こう岸へ渡りやすいですね」
「用がない」
 向こう岸の斜面に竹さんの家が見える。
「あれは何ですか」
 岩の一部が洞穴の入口のようにくりぬかれている。
「川尻殿が眠っておられる」
「自殺した人がいるって言ってたでしょ。私、知らないけど、あの岩の上から飛び降りたの」
「そんなこともあった。土佐藩士川尻瓢史朗殿終焉の地じゃ。ここが浄土だというに、それも分からぬ業の深き若武者だった」
「いつの時代の人ですか」
「徳川様の末でした」
「幕末の勤王の志士ですか」
「わしには分からぬ世になっておった。川尻殿のことがあってからしばらくして武家がこの世からなくなりました」
 世代がここまで離れると、僕には理解できなかった。
   *
 僕は久しぶりにスクーターに乗った。一本杉が見えてきたかと思うと、あっという間に倉に着いてしまった。
 軽ワゴンの横にスクーターを止めた。エンジン音を聞いたのか、彦造さんが倉から出てきた。
 最近僕は毎日のように倉で在庫品を調べていた。僕は調達係なので、在庫を確認したり、調達物についての知識を彦造さんから学ぶ必要があるが、実は野良仕事を終えてからの時間を持て余していたことも確かだ。
「気が向いたときに行けばいいのであります」
「毎日来て迷惑かな」
「そういうことではありません」
「じゃ、どういうこと」
「綾乃さんから聞いてはおらんのですか」
「聞いていない」
「そうでありますか。それでは綾乃さんも知らないのでしょう」
「どういうことでしょうか」
「調達物質がなくても里はやっていけるのであります」
「食べる物がなければ、餓死しますよ」
「食べても食べなくても同じであります。しかし、一日二食か三食、口に入れないと落ちつかないのも事実であります」
「彦造さん、ちょっと待ってください。それは非常に重要なことですよ。つまり、僕らは何も食べなくても生きていけるわけですか」
「そうであります」
「そんなアホな。里主の森小路春麿がそんな仕掛を作ったわけですか」
「自分達は里主と呼んでおりますが、元々ここは春麿様だけの仙境なのであります。自分達は迷い込んだだけなのであります。自分達は春麿様のような仙人ではありませんので、一日何も食べないで暮らすことはできません。食欲には勝てんであります。だから食べるのであります。自分達は仙人の真似はできません」
「でも、僕、食欲がありますよ。これはお腹がすいているからでしょ」
「食べなければ食欲もわかなくなるのです。食べるから欲しくなるのであります」
「彦造さんは食べているのでしょ」
「食べる楽しみ、大便をする楽しみを奪われてまで生きたいとは思わんであります」
「では、やはり調達は必要なんや」
「そうであります。ですが、今説明しましたとおり、餓死することはありませんので……」
「うーん。そいうことか。つまり、この里は本当は春麿さんだけがひっそりと暮らしてた仙境だったわけか。僕らは邪魔をしているわけか。僕らは侵入者なんだ」
「そうであります。そうでありますから調達は里主の命令ではないのです。まあ、そういうわけでして、これは自分達が勝手にやっておることであります」
「里主はそれを許してくれてるわけやな」
「里主はああいう人柄でありますから……。人づきあいが悪いのであります。仙人は隠遁者でありますから」
「しかし、スクーターのガソリンやオイルを調達しないと不便ですよ」
「それは自分のクルマも同じであります。徒歩で外に出るのは辛いであります。ですが、なければないでもかまわない機械であります。自分や青沼さんは自動車というものを知っておるからであります」
「江戸時代、土井多聞さんは馬で調達に行きました」
「多聞さんも調達に行ったことがあるのですか」
「自分の前は杉山与平さんが任務に当たりました。ついこの先の家であります。明治時代の小作人であります。マイケルは一度行ってもらいましたが、要領を得んので駄目であります。青沼さんが迷い込んでくれたので、自分は助かるであります。調達物は里人は期待して待っておるであります。大事な仕事であります」
 確かにタバコを吸わなくても生きていける。タバコを吸うのは習慣になっているからで、習慣を維持したい欲求がある。だからその維持のためにはタバコの買い出しは必要だ。
 僕はこの里に来ても大阪での生活を維持しているようなところがある。それは土井多門が江戸時代の雰囲気を保ちながら暮らしているのと同じだ。
 里主の春麿は、里人を指導する気がないようだ。僕らにとって春麿は里のリーダーだが、春麿にとっては迷惑な話なのだ。
 彦造さんと話し込んでいると、腰の曲がった老婆が杖をついいて現れた。「ご機嫌さんで」と、老婆は彦造さんに挨拶した。老婆はお辞儀をしているのだが、最初から腰が曲がっているため、さらに深い角度を作っている。
「こちらさんもご機嫌さんで」と、僕に対しても腰を曲げて挨拶してくれた。
「はい、ご機嫌さんで」僕も腰を曲げて応えた。
「婆ちゃん、今日は何が入用かね」
「わしゃ、白い飯さえ食べちょったら満悦じゃ」
 僕は倉の中からコシヒカリの小袋を取り出した。
「婆ちゃん乳母車はどうしたであります」
「ゴマがはずれよった」
「ゴマって何ですか」と僕。
「車輪のことでしょう。青沼さん、悪いでありますが、この米を配達してもらうわけにはいきませんか。それと、帰りに乳母車を持ってきてもらいたいのでありますが……」
「わけのないことです」
 つまり、これからは僕と彦造さんとで里の雑用をこなしていくことになるのだ。僕は別に嫌ではなかった。
   *
 僕は倉からの帰り道、もう少しスクーターで走ってみたいと思った。軽ワゴン車からガソリンを分けてもらったので、そんな気分になったのだ。
 そんなことを考えているうちに、すでにマイケルの丸太小屋の前を通過しており、綾乃の家が近づいた。エンジン音は綾乃にも聞こえているだろう。
 綾乃に声をかけて行こうと思い、左折して小道に入り、井戸の前でブレーキをかけた。僕は左折ランプも点滅させなかったし、ヘルメットもかぶっていない。ここは公道ではないのだ。
 綾乃は冴えない顔をして出てきた。また昼寝でもしていたのか。
「ガソリンがいっぱいになったからちょっと走ってくる」
「どこへ」
「探検」
「気をつけてね」
「大丈夫」
 バックミラーを見ると綾乃が手を振っている姿が小さく写っている。
 メイン道路に出た。右へ行けば里の奥へ、左へ行けば里の外へ向かうことになる。僕は距離的に長く走れるというだけのことで、左折した。
 しばらく行くと、川に沿った道になる。このあたりはまだ里の中なのだが、家はない。向こう岸は断崖だ。
 このまま走り続けると、先日彦造さんと一緒に走ったコースを辿ることになる。まだ一人で外に出る勇気はない。
 僕がこの里に入ってきたときの枝道がこの近くにあるはずだ。どうなっているのかを確かめたい。外に出てしまう手前で引き返せば問題はないだろう。外に出るにはそれなりに決心がいる。今日は軽くスクーターを乗り回したいだけなのだ。
 枝道の入り口が見えた。僕は迷わず右折した。
 枝道に入ったとたん、ハンドルを取られた。上り坂でカーブが多いので、何度も足をついた。よくこんな道を降ってきたものだと、我ながら感心する。登りよりも降りのほうが怖いはずなのに……。
 十メートルも進まないうちに、汗が出てきた。周囲は鬱蒼とした樹海で、もし道がなければ迷ってしまうだろう。誰も通らない道なら雑草で蔽われているはずだ。しかしこの道は地肌をきっちりと出している。所々に苔が生えている程度だ。よく整備されたハイキング道といった感じなのだ。
 この里では桃の花が年中咲いている。ある程度成長した植物はそこで成長を止めてしまうのか。
 僕はここが普通の世界ではないことを知っている。だが、朝起きればこの世界にいるわけで、それが毎日続いている。そして綾乃もマイケルも彦造さんも、平気な顔で暮らしている。それだけのことではないかもしれないが、僕はこの里の不思議さを、最近受け入れている。
 ハンドルにしがみつきながら坂道を登った。慣れてきたためか、思うように走れるようになった。このまま走り続けると、外に出てしまいそうだ。彦造さんと一緒に外に出たときは、砂地の場所が境目だった。そこから今まで走ってきた道が鏡のように繰り返されるわけだ。だが、この樹海の中を走る道では天狗岩のような目印になるようなものがない。
 僕はかなり走っている。だが、同じような路面には出くわさない。気付いていないだけかもしれない。このまま走れば外に出てしまう。そしてガードレールのある道に出るだろう。
 谷底から這い上がるように登ってきた甲斐あってか、見晴らしのいい場所に出た。里を取り囲む山の裏側へ抜けようとしている。いよいよ外に出てしまう。だがガードレールは見えない。
 アクセルを噴かさなくても、軽く走るようになった。そして平坦地をしばらく走っていると、道幅が広くなった。夏の日の運動場のような場所に出た。
 スクーターを停めた。何かおかしいと思っていたら、樹木がない。僕は後ろを見た。道が途切れているあたりには杉木立が見える。
 僕はスクーターから降り、斜面を登った。いつか見たあの不気味な風景が広がっていのが見えた。縁起の悪いものをまた見てしまった。妙な形をした山々が重なり合っている風景。僕はそれを鬼の国と名付けた。名付けることによって、恐さが減ると思った。
 岩場を降りているとき、人影を見た。人影はスクーターの近くにいた。「鬼」と、心の中で呟いた。よく見ると、その人影は茶色の服を着ていた。作業着だった。人影は文字どおり人だった。そしてその人は里主の森小路春麿だった。
「このクルマで、ここまで登ってきたのか」
「はい」
「重宝な乗り物やな」
「はい」
 僕はストレートに聞いてみた。
「ここはどこですか」
「黄泉の国や」
「地獄のことでしょうか」
「地獄?」
 里主は首をかしげた。
「僕はこんな場所に立っていてもいいのでしょうか」と質問しながら、自分でも意味の分からない問い方をしているのに気付いた。
「ここに、居たいか?」
「いえ、居たくありません」
「それなら、里に戻りなはれ」
「里の外、つまり、街に出ようとして、ここに来てしまったのです」
 僕は道を指さした。
「この道は、外には繋がってはおらん」
「でも、僕はこの道から里に入ってきました」
「入れはするが、出られまへん」
 そうか、一方通行なのだ。
「調達とやらに出るところか?」
「いえ、ちょっと散策をと……」
「入ったばかりの頃は、里の様子を知りたがるものや」
「はい、すみません。うろうろして……」
「迷うてしまうから、黄泉には出んほうがええ」
「ここは人が住めない場所ですね。月の表面のようです」
「おかしなことをいいいよる。住んでおるくせに」
「僕らのことですか。そうでした。僕らが住んでいました」
 里主の、今の言い方からすれば、桃の里は黄泉の国の中にあることになる。
「黄泉の国とはどういう国でしょうか」
「常世とも申してな」
「浮き世に対しての常世ということですね。常世の別名が黄泉の国なんだ」
「仙境はその中間の結び目じゃ」
「その結び目をあなたは発見されたわけですか。それが桃の里……」
「他にもある」
「何がですか」
「里は他にもある」
「そうか、結び目は、探せばあるわけだから……ありますね。そういう意味で」
 地獄のようなこの風景の中に、桃の里のような場所が他にも存在しているのか……。
   *
 もし大阪に住んでいるとき、こんな体験をすればノイローゼになっていたかもしれない……と、僕は綾乃が作ってくれた玉子焼きを箸で切りながら思った。
「他にも里があるの?」
「この前、話したやろ、マイケルの裏山から見た不気味な風景……」
「うん」
「里の外は、全部そんな場所かと思ってたけど、実は仙境が所々にあるみたいや」
「そのほうが怖いわ」綾乃はラッキョをはさんだ。
「どのように怖い?」
「普通じゃないから」
 僕は微笑んだ。
「ここも決して普通やない」
「でも普通よ」
 確かにここと比べると黄泉の国は異次元だ。綾乃にとってここが普通の世界なのだ。なぜなら綾乃はもう戻るべき現実の世界を失っているから。だが、僕はまだ今なら現実の世界に戻れる。
「里の外が二つもあるのね」
「いや、この里も黄泉の国の中なんや」
「でも、山の向こうは人が住めないわ。もっと先に行けばここと似たような里があるかもしれないけど、私達から見れば別の世界だわ。私達が住めるのはここだけなのよ」
「それもそうやけど」
「おかわりは?」
 僕は茶碗を綾乃に渡した。
「お茶漬けがいい?」
「うん、そうやな」
「でも、外に出るのは危険ね」
「どっちの?」
「どっちも」
 綾乃は永谷園のお茶漬けの素をご飯に振りかけ、そしてお茶を注いだ。
「でも、調達で行く外のほうがまだ安心だわ。彦造さんと同じことをするだけなんだから。黄泉の国は怖そう。そんなところ歩けるの仙人だけよ」
「そうやな……」
 僕はこの里に飽きたり、この里が嫌になり、この里で暮らす気をなくした場合、現実の世界に帰る気が少しはあった。そのため少しは里のことを知って、それなりに安心したかった。だが今日まで暮らしてみて、帰る気は起こらなかった。
 その最大の理由は、やはり綾乃だろう。綾乃は僕を必要としている。僕でなくてもかまわないかもしれないが、相手は僕しかいないのだ。僕らはお互いを必要としている。その事実は現実のものだ。
「ほら、見て」
 僕は綾乃を見た。
「私じゃないの。お月様」
 大きな丸い月が浮かんでいた。子供の頃、月にウサギがいると母から聞かされて眺めた月と同じ月がそこにあった。
   *
 調達に出る日がきた。二回目の調達だ。まだ一人では無理なので、当分は彦造さんと一緒に行くことになる。その日、僕はスクーターで軽ワゴンを追いかけることにした。スクーターで外を走りたかったのだ。
 この前と同じコースを辿った。彦造さんの軽ワゴンを見失わないように注意した。特に境界線ともいえる池の跡を通過するときは緊張した。
 林道がアスファルトになり、最初の村落を通過すると、篠山盆地に出る。国道との交差点に自販機があり、前回そこでアイスミルクティーを飲んだ。そして今回も自販機の前で休憩する。
「竹さんとマイケルはついに結婚したでありますな」
「そうですね」
 別に式を挙げたわけではないが、竹さんはマイケルの丸太小屋へ三日前に引っ越した。
「うまくいくでしょうか」
「マイケルも竹さんも、ここらが潮時であります。色男が迷い込む可能性は少ないでありますからな」
「僕にそのケがあれば、よかったのですが」
「そうなると、マイケルと竹さんはライバルになってしまうであります」
「そうでしょうね」
「そこそこその気があれば、間に合わすべきであります」
「僕と綾乃もそんな感じなのかな」
「青沼さんと綾乃さんは、結構お似合いです。自分と貞より相性がいいであります。自分は最初から貞を好きではありませんでした。貞も自分を好いておりませんでした。ですが青沼さん、相思相愛でなくても、貞しか相手がおらんのですから、自分は貞を好きになろうとしました。貞も同じであります。貞は癇癪持ちで、きついオナゴであります。今では慣れましたが……」
「土井多聞さんところは、どうだったんです」
「多聞さんが嫌がっておったと聞いております。何せ多聞さんは小心者で堅物ときておりますからな。お糸さんは、あれは相当のあばずれであります。旅芸人でありますからな。多聞さんも旅芸人と一緒に暮らすのは苦痛だったと思いますよ。どの組もそれほど完璧ではありません。ですが青沼さんと綾乃さんは凄い。本当に凄いであります」
「恐いような気がします……。僕は本当に綾乃が好きなのかどうか分からなくなるときがあります」
「分からんほど好きなのです……それは。自分はそんな羨ましい話は聞きたくありません」
「すいません」
 僕は自販機でタバコを買った。ここが僕らの家から一番近い距離にあるタバコ屋になる。ちょっとタバコを買ってくる……といっても、ものすごい隔たりがある。距離的にも次元的にも……。
「マイケルと竹さんを祝うような行事はないのですか」
「わしらのときもなかったであります」
「僕らもそうだったけど、里の人が集まって祝うというようなことはないのですか」
「それは無理であります。そんなことを言い出したのは青沼さんが始めてであります。自分は参加してもかまわんでありますが、貞は出席せんでしょう。自分は軍人だったので集団生活には慣れております。しかし、他の連中は面倒なのを嫌うであります。別に悪意はないですが……」
 前と同じように、スーパーマーケットの駐車場に彦造さんは軽ワゴンを入れた。
「里の連中は時代劇であります。時代劇の衣装や小道具を買いに行くようなものであります」
「そう言われてみれば、そうですね」
「竹さんは裾の短い妙な袴を愛用しております。しかしです、そんなもの売っておらんのですな」
「古着屋さんにもないのですか」
「古すぎるであります」
「結婚祝いで、竹さんの袴を調達したいと自分は思っております。しかし、手に入るのは普通の袴であります。それをです、それを隣の婆さんに短く仕立て直させれば、何とかなるでしょう。自分は今日、それを調達するので、青沼さんは適当に調達すればいいでしょう」
「はい」
 僕は倉の在庫を調べていたので、何を買えばいいのかおおよそ見当は付いていた。
 僕は彦造さんから一万円札の束を受け取った。
「このお金は、誰のものなんですか」
「里主です」
「里主はお金持ちなんですね」
「里主もどこかで調達してくるのであります」
 僕は、黄泉の国を歩いている里主を思い浮かべた。
「先日と同じように、自分は商店街で調達するんで、青沼さんはスーパーで調達して下さい」
「はい、分かりました」
「もし迷子になった場合、一人でも戻れるでありますか?」
「さっき来た道を、そっくり引き返せばいいわけですね」
「そのときです。信じることであります」
「はあ?」
「里へ入れんのではないかと、疑わんことです」
「それ、微妙ですね」
「青沼さんは、里とこの街とではどちらがよいと判断されます」
「もちろん、里です」
「それなら、大丈夫であります」
「彦造さん。それ、ちょっと、気になりますけど」
「もし、どうしても里に入れんようなら、里の前で待機しておって下さい。自分が向かいに行きますので」
「ちょっと、微妙なんですね」
「それほどではありませんが、本当に戻れるのかと心配になった場合、里への道を見失うことがあるのです。自分も初心者の頃は数回それを体験しております」
「信じれば、道が開けるというわけですね」
「信じるというのではなく、当たり前の気持ちのまま走ればいいのであります。心配なら、一度これから一人で里に向かえばいいでしょう」
「大丈夫です」
「入れなくても狼狽えたりしてはいけません」
「では」
 彦造さんは商店街のほうへ向かった。
 買い物はすぐに済んだ。駐車場を見たが、彦造さんの姿はなかった。僕が早すぎたのだ。
 大きなビニール袋を両手に振り分け、駐車場まで来た。彦造さんは竹さんの袴で手間取っているのか、なかなか戻ってこない。久しぶりに見る外の風景なのだが、感慨も何もない。桃の里のほうがやはりいい。
 僕は電話ボックスのドアを開けた。
「あっ、僕や」
「お前、何してるんや、ちょっと待って、今仕事中や、おい、切るなよ」
 僕は切ってしまおうかと思った。僕は蒸発しているのだ。切ろうとしたとき、藤田の声が聞こえた。
「大した用事はないんやけど、いつ電話しても留守やからな。どうしてたんや」
「ちょっと旅行」確かにこれは旅行かもしれない。
「章ちゃんも、何度も電話した言うとるぞ」
「章ちゃんが……」
「返してもらいたい物がまだ残ってるようや」
 返さないといけない章子の物はもう何もないはずだ。
「今どこや? まだ旅先か?」
「ああ、まあ、そんな感じかな」
「呑気な奴やな。週末までに戻れよ。今度の土曜日、三階屋で呑もうや……なっ。久しぶりに知子も章ちゃん誘うてるんや。お前が欠席したらバランスとれんからな」
「その前に、頼みたいことがある」
「分かってる。章ちゃんやろ」
「アパートのことや」
「何でもええから、帰ってきたら電話してや」
「分かった。それと、実家から連絡があったら、心配せんように言うといて」
「ああ、分かった。ちょっとはやる気出てきたみたいやな。旅行の甲斐があったというもんやで。病院よりも温泉のほうが効いたりしてな。そしたらな」
 藤田のほうから先に切ってしまった。忙しいのかもしれない。それよりも、僕はまだ大阪での生活を捨てきれないのかもしれない。それに今ならまだ戻れる。いったい何を考えているのだ。大阪の街に戻りたいのか。いや、そんなことはない。あの街は僕を必要としていない。桃の里では僕を必要としている。僕がいなくなれば綾乃は困るだろう。あの街から僕が去っても章子は悲しまない。藤田もそうだ。しかし、それが分かっていながら、どうして電話をかけたのか……。
 ドンドンとガラスが振動する音。振り返ると彦造さんの笑顔。前歯が一本なくなっているのだが、何ともいえない愛嬌になっている。
 僕は軽ワゴンにビニール袋を詰め込んだ。
「電話でありますか」
「ああ」
「街が恋しいでありますか」
「ちょっと後始末が」
「一度、帰ればどうであります。自分は三回帰りました。それは必要かもしれません。そうでないと、里で暮らしておっても気になるであります」
「そうですね」
「それより、どうです。一人で里に入る計画を、さっそく実行しては」
「ああ」
「自分は一時間ほど遅れて出発するであります」
「はい、やってみます」
 僕は一人で篠山の商店街を走った。不思議な気持ちだった。開放感がある。この開放感は何だろう。
 里の空と篠山の空とは違っている。里は春の空で、麗らかで眠たくなるような空。篠山は秋の空で、空が高い。
 篠山城跡の堀の前に来た。そこを左折しないといけなかったが(武家屋敷跡)と書かれた標識を見つけたので、そのまま直進した。
 狭い路地から子供が飛び出してきた。思わずハンドルを切る。次の辻では一時停止した。
 僕は適当なところで左折した。すぐに国道に出た。いつもの自販機のある場所まで戻った。アイスミルクティーを二つ買い、シートボックスの中に投げ込んだ。
 国道を渡り、里へ向かう村道を走る。もう刈り入れは終わったのか、藁が積み上げられていた。
 豪族でも住んでいたのか、大きな農家が遠くに見える。村道はさらに狭くなり、そして上り坂になる。山が迫ってきた。僕が里へ迷い込んだときの山は、どこだろう。あの道は結構大きかった。大阪平野と篠山盆地を結んでいる幹線道路だ。いつか、あのカーブのガードレールがはずれている場所へ行ってみたいと思った。
 段々畑が見えなくなり、勾配はきつくなる。篠山に出るときは、一気に走り抜けたのだが、非力なスクーターではスピードが出ない。
 彦造さんも言うように、やはり一度大阪に戻るべきかもしれない。蒸発するにしても消息を絶つにしても……。
 道は舗装道路から林道に変わった。このまま平気な顔で走っていけば里に入れる。
 山間の殺伐とした風景が続いている。だが、この場所は現実側の鏡に映っている桃の里なのだ。問題は樹海の中を抜け、池のあった場所を通過できるかだ。右手に天狗岩が見えた。もうすぐ池の跡だ。
 タイヤから伝わる感触が変わった。砂地に出たのだ。池の跡だ。ここで行き止まりになっているのだが、その先に里がある。僕はこの先に里があることを知っている。それだけで十分だ。里があることは疑い様のない事実なのだから。
 あるある……と、呟きながら砂地の上を走った。樹木が壁のように砂地の広場を囲んでいる。僕はその壁に沿って走った。池の跡を回っているような感じだ。囲んでいた樹木が途切れている箇所に来たので、突っ込んだ。普通の感覚では来た道に戻ったことになる。
 樹海の中をゆっくりと走った。すぐに天狗岩が見えた。天狗岩は今度も右にあった。うまくいったと僕は胸をなで下ろした。もし来た道を引き返しているのなら天狗岩は左に見えるはずだったからだ。
 興奮したためか、アクセルを回しすぎた。木の根っ子にタイヤをとられて繁みの中に突っ込んだ。エンジンが切れていた。スクーターを小道に引っぱり出し、セルを押す。エンジンはかからない。もう一度押すとかかった。今度、街に出たとき、トライアルバイクか四輪駆動を買おうかと思った。
 樹海の中の道は思ったよりも長かった。もうすぐ抜けるはずなのに、なかなか開けた場所へ出ない。
 行けども行けども樹海が続くのではないかと、心配になった。既に里の中に入っているはずだが、下手をすると黄泉の国へと突き抜けてしまう危険性もある。
 スクーターを止めた。そして周囲を見渡した。目印になるようなものは見あたらない。(やばいな)と思いながら目を伏せると、タイヤの跡を見つけた。
 警笛が鳴った。エンジン音も聞こえた。僕もスクーターの警笛を鳴らした。彦造さんの軽ワゴンはすぐに姿を現した。
「成功したでありますな」
「ちょと、恐かった」
 今度は後ろに彦造さんがいるので、僕は安心して走れた。樹海はすぐに終わった。
 僕は桃の里の存在を疑っているわけではない。だが、こんな里があることを心のどこかで疑っているはずだ。しかし、桃の花が見えてきたとき、僕はほっとした。やはりここは僕の里なのだと。
   *
 縁側で僕は寝そべっていた。綾乃は座敷で繕い仕事をしている。
「整理しに行く」
「えっ」
 いきなりなので、綾乃は分からないようだ。
「後始末する必要があるような気がする」
「何の?」
「大阪」
「ああ」
 綾乃は手を休め、こちらを向いた。
「彦造さんも何度か帰ったみたい」
「私は帰らなかったわ。東京だし……。それに私……」
「自殺やもんな」
「そう」
「後始末もいらん」
「あなたは、何だった」
「何が」
「どうしてここへ来たんだっけ」
「ツーリング。その、つまりドライブ中に迷い込んだ」
「そうだったわね。じゃ、いきなりね。心配してるかもしれないわね」
「蒸発したことにする」
「蒸発って何?」
「消えてしまうこと……いきなり急に」
「そんなことあるの」
「よくある」
「じゃあ今、蒸発したことになってるの」
「そうなってしまうようにしたい」
「そう」
「意味が分かるか?」
「一度戻って、整理するんでしょ」
「そう、外のことを気がかりにならんように……」
「大丈夫」
「大丈夫、出たり入ったりできるようになった」
「じゃ、行って来たら」
「心配か?」
「当たり前でしょ」
「例えば?」
「大阪に出て、何かあったりとか」
「そんな物騒な街と違う。戦争の痕跡さえない。平和そのものや」
「じゃあ、安心」
「三日ぐらいかな」
「寂しいわ」
「たったの三日や。僕が来るまで何十年も待ったんやろ」
「でもあなたが来てから毎日一緒よ」
「分かった、二日ぐらいで済ませる」
「よかった」
 僕はやはり本気でこの里で暮らすつもりなんだ。ここはやはり決定的な場所なのだ。この里に迷い込んだ人間なら、誰でも思うことなのかもしれない。だからこそ桃源郷なのだ。
   *
 JR篠山駅前にスクーターを停め、大阪までの切符を買った。
 スクーターで帰る気力はなかった。事故でも起こせば何をしているのか分からない。桃の里で永遠に生きられることを知ってしまうと、外に出るのが恐くなる。
 大阪駅に到着したのは夕方だった。ホームは通勤ラッシュでごった返している。その波の中に飲み込まれてしまうと、桃の里のことが嘘のように感じられる。
 立ち食いそば屋できつねうどんを食べ、地下街の喫茶店に入った。三階屋での待ち合わせ時間まで、まだ間がある。
 藤田や章子に会うのが、恐いような気がした。僕はとんでもない秘密を背負っている。しかしそれは負い目とは逆だ。僕は違ってしまった。今までの僕ではなくなった。僕には桃の里がある。この優越感を自覚するのが恐い。僕が獲得した世界は、まともなものではない。努力の結果勝ち取ったものではない。その反対なのだ。
 
 阪急東通り商店街は、相変わらずの賑やかさだ。客引きに何度も声をかけられる。きつい香水を漂わせた風俗のお姉さんが店の前で笑顔を振りまいている。「千円ですよお兄さん。今ならたったの千円……」
 大衆酒場からは焼き鳥の煙が立ち、ゲームセンターからは甲高い電子音が漏れている。
 商店街の端にキャバレーだった建物がひっそりと建っている。ネオンも消えている。ポルノ雑誌専門店の前を通過すると、今までの賑わいは嘘のように消えてしまった。
   *
 三階屋のドアを開けると、藤田耕一と知子さんがボックス席に相席で座っていた。章子はいなかった。
 藤田は僕の顔を見て、苦笑いした。僕も笑い返した。知子さんは困ったような顔で僕を見ている。僕は唇を歪めながら席に着いた。
「ほんまにもう、何処をうろついてたのや。心配してたんやで」藤田は前よりも口元の皺が増えている。
 マスターがグラスを運んできた。藤田がビールを向けてきたので、僕は急いでグラスを持った。
「章ちゃんも、もうすぐ来るはずや」
「章ちゃん結婚するかもしれないって」
「こら、いきなり言うな、いきなり」
「ええねん知ちゃん。それぐらい覚悟してる」
「ははーん、その覚悟固めるための旅行やったな」
「仕事のこともあるしな、いろいろ行き詰まってるわけや。結構それで忙しい」
「でも、章ちゃんね、決心がつかないみたいよ」
「お前が頼りないからや。はっきりせい、はっきり」
「相手誰やろ?」
「会社の人よ」
「知ちゃん、その人と会った?」
「会ってない」
 僕は適当に喋っていた。ここでのことは、もう僕の中では終わっているのだ。
 僕は湯豆腐とシシャモを注文した。
「私達、こうやって会うの、今日で最後かもしれんね」
「大丈夫や、章ちゃんは青沼と結婚するて、そうなってるんや」
「ねえ、青沼君、ほんとに章ちゃんと一緒になる気あるの? 正直に聞かせて」
 いつもこうだ。いつもいつも、こうやって自分の意志を伝えないといけない。いつでも判断を迫られる。この世界ではいつもこうなんだ。
「青沼! シシャモかじっている場合か、どうなんや。今日が最後やと思え」
「これは、僕と章ちゃんの問題やから……」
「違う、俺らの問題や」
「そう言うてくれるのは有り難い」
「ほー、今日は素直やな」
「心配してくれる人間がいるから」
「おらいでかい」
「遠慮もなしに……」
「お前に遠慮してどうするんや、俺なんか他で遠慮しっぱなしやねんぞ」
「僕は君のガス抜きか、アース線か」
「お前も言いたいこと言いまくってるやないか」
「なに言い合いしてんの、しまいに喧嘩になるから。二人とももう学生時代と違うのよ」
「知子よ、寂しいこと言うなや」
「そういう意味と違う」
「どういう意味や」
「だから、子供もできるでしょ」
「それが何や」
「どういう意味……それ。私達の子供よ」
「分かってるがな、そんなもん。分かり切ったこと言うな、分かり切ったことを」
「そういう言い方してもいいの」
「分かってる言うてるやろ。きつい言い方すんなや」
「きつないわ。私のどこがきついのん」
「それがきついんや、それが」
 僕は二人が羨ましかった。二人にとって嫌な言い争いかもしれないが、章子とはこんな喧嘩はできなかった。二人ともどこか遠慮があった。
「マスター、ボトル出してくれ、ボトル」
「章ちゃんが来るまではビールのほうがいいの」
「勝手に決めんなや。ほんまにもう、細かいことを、いちいちいちいち」
 僕は笑ってしまった。
「みてみい、暗い青沼に笑われたやないか」
「こんなん見てたら、結婚も考えもんでしょ、青沼君」
「ええもんやと思てる」
 マスターが、テーブル席に現れた。
「どうした、注文の催促か。章ちゃんが来てから、いっぱい頼んだるから、催促するな催促……」
「違うんです。その章子さんからたった今電話が入りまして、その、今夜は来れないって。知子さんと、藤田さんによろしくって……」
「青沼には伝言なしか」
「あ、はい」
 もしかすると、章子は、僕が来ていることを知らないのもしれない。
「せっかく場を作ったのに、ほんまにもう……」
 そのあと僕はこの夫婦の愚痴の聞き役に回ってしまった。
 アパートに戻ると郵便ボックスがゴミ箱のようになっていた。半分は広告のチラシで、文字どおりゴミだった。
 部屋に入ると、相変わらず散らかっている。ひと月近く部屋を空けただけなのに、他人の部屋に入ったようだ。
 ベッドで横になり、テレビのリモコンを押す。いつもの深夜番組をやっている。
 留守番電話のランプが点滅していたので巻き戻す。かなり時間がかかる。三十分テープの最後まで録音されているようだ。長く続く巻き上げ音がひと月間の空白を表現している。
 藤田の声、母の声、電話局の声、また、藤田の声……と、声の断片が続いた。そして、章子の声が聞こえた。
「いないの、帰ったら電話して、別に用事はないけど、じゃあね」
 最後までテープを聴いたが、章子の声はそれだけだった。
 失恋による蒸発……、これは章子を傷つけてしまう。やはりすべてが嫌になっての蒸発がいい。
 机の引き出しから便箋を取り出した。手紙など十年近く書いたことがない。とにかく単純な蒸発なのだ。それが伝わればいい。
(蒸発します。探さないでください 青沼俊介)
 これで十分だ。何カ月後かに、この机の上の走り書きを母か家主が見るだろう。藤田も母から聞いて知るだろう。そして章子も知るだろう。
 しかし僕は卑怯者だ。僕だけが桃源郷に逃げ込もうとしている。みんなそれなりに苦労をしている。僕だけが荷を捨て、安穏に暮らそうとしている。
 蒸発したとなれば、母は心配するだろう。藤田も章子も知子さんも心配してくれるだろう。それなりにショックを与えるだろう。
 僕はこの現実の世界での存在感は小さい。だがいくら小さくても、親しい人々がいる。その人たちを裏切る。確かに働きもしないで、ぶらぶらしているので、そのことだけでも十分裏切っている。だが、先は分からない。母や藤田や章子が納得できる人間になる可能性もあるのだ。蒸発となると、その可能性さえも捨ててしまうことになる。
   *
 章子は約束の時間より、五分ほど遅れて喫茶ルソンに現れた。明日、里に帰るので、今日中に会っておきたかった。
「会社に電話をかけるのは苦手やな」
「誰がとるか分からないもんね」
「あの人、上司?」
「ううん、今年入った新入社員の男の子」
「後輩か」
「何よ、今まであんまり会社に電話してきたことないくせに。デート? て、からかわれたわ」
「この前……」
「ごめん、残業になって、抜けられへんかったの。知ちゃんにも悪いことしたな。青沼君も怒ってる」
「あの夫婦の愚痴、嫌というほど聞かされた」
「アホやねえ、まともに聞くもんやないわ」
「そうかなあ」
「それより、何、今日は?」
「そっちこそ、留守電に入れてたやんか、その用事は何や」
「プロポーズされたの。会社の人に」
「ああ」
「それでね、もしかしたら結婚するから……」
「したら」
「それだけ?」
「されたんやろ」
「されたけど、ちょっとは考えるでしょ」
「考えたんやろ」
「今も、考え中」
「僕に相談するわけか」
「そんなことできるの、知ちゃんと藤田君と青沼君しかいないでしょ」
「他に友達おらんの……寂しいなあ。社会人のくせに」
「そういう付き合い方にはならへんのよ」
「しかし、僕にするのは嫌味や」
「うーん、青沼君もある意味では当事者やもんね」
「知ちゃんはどう言うてる」
「あの夫婦は二人とも青沼君の味方やもんね。だから、相談しても答えは最初から出てるわけ」
「僕はどう答えたらええ」
「好きなように答えて」
「したらええ」
「珍しいわね、はっきり言うなんて」
「現実的に考えたら、それしかないやろ」
「青沼君が現実的になってくれたら、話は別なんやけどな。どうなの?」
「僕はもうあかん。失格や、リタイヤや」
「それは分かってるけど、違う言葉、他にないの」
「思いつかん」
「じゃあ、その方向でいくよ、文句ないでしょ」
「そんな元気もない」
「あきれた」
「僕にことわりを入れる必要もない」
「そんなふうに考えてたわけ?」
「僕はもうアカン。それ以上、責めんといて、白旗あげてるんやから」
「がっかり……。冷めてる」
「これで、僕らははっきりした」
「おかしいわ青沼君」
「何が?」
「もっと、未練ぽい性格の人やのに」
「はっきりせん性格を嫌がってたくせに」
「青沼君、ちょっと様子がおかしいわ。何かあったの」
「ちょっと旅行へ行ってただけや」
「そんな、旅行ぐらいで……」
「この前ドライヤー返したやろ。あのときもう覚悟したんや」
「あれは使うから返してもらったんやないの」
「そうとは受けとれん」
「また邪推して、神経質なんやから」
「どっちにしても、そうなったほうがええ」
「青沼君、できたの」
「何が」
「誰か」
「それは……」
「語尾が濁ってるよ。ひと月もどこへ旅行してたの。それに、そんなお金どこにあったの。そのパワーで仕事探しなさいよ」
「どちらにしても、僕らは藤田に巻き込まれただけや。藤田と知ちゃんのカップルの添えもんや。最初から無理があったんや」
「青沼君、知ちゃんのほうがよかったんでしょ」
「章ちゃんも藤田のほうがましやと思てたんやろ」
「それは言い過ぎと違う! それやったら、今まで何やったの。それだけやったら、続かないでしょ」
「そうやな」
「寂しすぎるやないの。あんまりやないの」
「悪い悪い」
「青沼君はひがみっぽいから嫌いやの。いっつも、そうやって、ひがむでしょ」
「分かった分かった」
「やっぱり私達縁がないのかもね」
「うん」
「結婚するんやったら、僕らもう会えんようになるな」
「そうやね」
「ええ思い出になるやんか」
「私の青春も、これで終わりやね」
「章ちゃんは僕の青春そのものやった」
「どっかで聞いたことある言葉やね」
「まあ、そういうことや」
「何か、私のほうがショックが大きいみたい」
「すぐ忘れるくせに」
「なら、ええねんけど……」
 章子は黙ったまま僕を見つめた。二秒三秒と続いた。
「青沼君、やっぱり変わったみたい」
「同じや」
「雰囲気が違うわ」
 章子とは地下鉄の改札口で別れた。永遠の別れになると思った。十年後、章子の前に僕は現れることもできる。だが、そのときは章子のほうが年上になっている。
 地下街は誰もが急ぎ足だった。僕は憂鬱な気分で歩いていた。ゆっくり歩いているため、後ろの人に踵を踏まれた。僕の住む場所は、ここではなく、桃の里なのだ。綾乃の待つ桃の里なのだ。だから、この街を捨てることができる。そして捨てるために戻ってきたのだ。
 アパートに戻った。
 夕食を食べていなかった。腹が減っている。だが、コンビニへ弁当を買いに行く気になれない。そんな僕でも里では調達係だった。
 テレビのスポーツ番組を見ていると、ノックする音が聞こえた。テレビから聞こえてくる音と、質が違うな、と、つまらないことを考えながらドアを開けると、藤田耕一が立っていた。
「仕事でこのあたりまで来たんや。チラシの打ち合わせや。カラオケスタジオが建つんや」
「仕事をしてるんやな」
「お前も手伝どうてくれや」
「そんな元気はない。あっ、まあ上がれや」
「そんな時間もない。食べ損ねたんや、外に出んか?」
 藤田の中古のフォルクスで、ファミリーレストランへ向かった。
「久しぶりやな、このアパート来るの」
「昔は、よう泊まりに来てたやんか」
「章ちゃんが来るようになってから、遠慮して来んようになっただけや」
「夕方、章ちゃんと会ったわ」
「ほう、すると回復か」
「いや、その反対や」
「踏ん切りついたか」
「知ってるくせに」
「そうそう、お前は踏ん切りが悪いからなあ、終わってからが長い」
「今回は簡単かもしれん」
「心境の変化か」
「環境の変化や」
「何やそれ?」
 不思議と藤田と一緒のときは元気になる。それなりに張り切りたくなる。
「四駆で荷物積める軽やったら何がええ」
「キャンプでも行くんか。そやな、ほら、今のや」
 酒屋のロゴが入ったワゴン車とすれ違った。
「あれやったら安いぞ。軽で四駆や。間違いない」
「もっとスポーティーなのがええ」
「ごっついタイヤはいて、車高上げたトラックみたいなやつやろ。びっくりするほど高いぞ。あれやったら、本物のトラック買うたほうがカッコええ。しかしお前、何かする気か。それなりにやる気出てきたんか」
「聞いただけや」
「どっちにするんや」
「迷うてる」
「店や、二つあるやん」
 いつのまにか賑やかな通りに出ていた。ステーキハウスと讃岐うどん屋がある。
「ステーキハウスがええな」
「停めにくいほうを言うんやから」
「藤田に遠慮してもしょうがない」
「それを拡大したらええんじゃ、それをな。拡張せえ拡張を」
「拡張か」とつぶやきながら、僕はワーゲンから降りた。
 藤田はタイヤをけ飛ばした。
「何か、ハンドルとられるんや、このタイヤ。付け替えよかな。やっぱりダイハツやで、知子の趣味で、フォルクス買うたけど、言うほど丈夫でもないしな」
 藤田は文句を言い続けながら、ステーキハウスのドアを押した。だが、開かなかった。
「それ、引くんや」
「分かってるがな、冗談やないの」
 ビーフシチューを食べながら、僕は妙なことを考えていた。藤田は、無心でロースを食いちぎっている。このひと月、僕は毎日食事はしていた。していたが、本当に食べていたのだろうか。里では食べても食べなくてもかまわないと、彦造さんが言っていた。だから里で食べていたものは栄養になっていたのだろうか……という疑問である。
「そうか、やっぱり章ちゃんとお前とのコンビは無理やったんかな」藤田は肉をガムのように噛みながら言う。
「踏ん切りはついたと思うけどな」
「この件はこれぐらいにしといたろか」
「無理があったんやわ」
「知子が言うてたんやけど、お前ちょっと顔が変わったな」
「そうか、まさか目の下に黒い隈でもできてるんやないやろな」
「ないない、それより、青白い顔やったのに、血色がようなってるみたいやし、頬もふっくらしてる」
「そうか」
「知子が言うには、雰囲気が違うてえ」
 章子にも言われた。どういうことなのか。
「お前もう、大丈夫みたいやな。何とかやっていけそうな雰囲気がある」
「そういうわけやない……。相変わらずや。章ちゃんのこともな……。仕事のことも、それに……まあ、ええけど」
「健康そうな顔して、暗い態度とるなや」
「健康かな」
「鏡、見たか。お前、シャブでもやってんのか」
「やってない」
「本当やろな!」
「やるわけないやろ」
「お前やったらやる動機が十分ある……。せやけど、金がないのに買うわけにもいかんわな。……変なところに入ってるんと違うか」
 僕はどきりとした。
「変なところ……とは?」
「組関係とか……」
「まさか。そんな根性ないわ」
「まあな、極道になれるわけないわな、お前では」
「あたり前田のクラッカーやないか」
 藤田は腕時計を露骨にのぞき込んだ。
「もう、十一時過ぎてるやないか。そろそろ帰らなあかん。そんなにのんびり食べんと、シチューの肉や、柔らかいねんから、さっさと食べや」
「食欲がなかっけど、藤田の顔見て、何とかなった。やっぱり藤田やな」
「なんやそれ」
「面倒なことになってるねん」
「いつもやないか」
「ちょっと展開が違うねん」
「面倒な話、これからするなや」
「ちょっとだけ聞いてくれるか。変な場所に行った」
「それがどないしたんや」
「この世と違うねん」
「なんやそれ?」
「現実と違う場所へ行って来た」
「下手な比喩やな。回りくどい言い方するな、どこか就職先を見つけたんやろ。仕事先が見つかったんやったら、もっと率直に言うてくれや」
「里やった」
「お前……?」
「桃源郷を見つけたんや」
「お前!」
「ひと月間、そこで暮らしてた」
「……時間ないからな。さっさと食べてしまえや」
「戻るべきかどうか考えている。今のままやったら戻られへん」
「例え話はな、あんまりくどいと嫌味に聞こえるんや」
 藤田は信じてくれない。だが、それでいい。一応藤田に報告した。
「顔色もそのためやと思う。自転車置き場にスクーターがなかったやろ」
「見てない」
「スクーターで桃源郷に入ったんや。そこは桃の里で、綾乃がいて……」
 僕は藤田の顔色を見た。
「続けるで、それでな、綾乃と暮らしてたんや。僕は里の調達係りで……」
 藤田はぽかんといている。信じてくれないほうがいい。僕が出任せを言っているように思ってくれるほうがいい。藤田よ。信じるな!
「それで、外に出たついでに、大阪へ寄ったんや。明日、里に帰る。明日から僕は消えてなくなる」
「お前……」
「そう決心して、大阪に来たんやけど、僕だけ逃げてる。僕だけ幸せになってしまう。今日、章ちゃんの顔を見た。章ちゃんの顔、小さなってた。みんな必死で生きてる。みんなに悪い。それを考えると、里へ戻る気がなくなってきた。しかし、里では綾乃が待ってる。僕は、僕は……」
「青沼。お前、お前……」
 僕は涙を流していた。藤田の前で涙を見せるのは悔しかったが……。
   *
 起きると昼過ぎだった。藤田はまだソファーで寝ていた。
 藤田にこれまでの経緯を喋った。夜中に何度も藤田は大声を出して怒鳴った。本当のことを話してくれと怒りだしたのだ。嘘ではないことを何とか納得してもらえたのは、明け方だった。藤田が本当に信じてくれたかどうかは分からない。
 キッチンで顔を洗っていると、藤田も起きてきた。
「悪夢ではない……これは、夢としては楽しい夢や」
「うん」僕はタオルで顔を拭きながら、ベッドに腰掛けた。
「夢精ほど気持ちのええセックスはない言うやないか」
「ああ」
「しかし、俺は本気で信じたわけやないからな。俺はただ、話を聞いてやっただけや。それでお前の気がすむのやったら、それでええわけやからな」
「ああ」
「それで、桃源郷へは戻る気はなくなったわけやな」
「うう……」
「綾乃やのうて、章ちゃんを選ぶわけやな」
「そうなってしまうか……」
「どっちや」
「浮き世を捨てるほどには枯れてないもんな」
「あの話な、俺は信じんとは言わんけど、こう考えたらどうやろ。つまり、頭の中の世界を彷徨うてたんや。それは現実のように見えるし、すべて現実の感触と同じやけど、脳の中での出来事やねん」
「それやったら、僕はひと月間、どこで何をしてたんや」
「記憶喪失や」
「ひと月分だけのか」
「どこかで倒れて、入院してたのかもしれんで」
「それやったら、姫路の家族に連絡がいくがな」
「例えばの話や、どんな状況か知らんけど、ひと月ほど眠りこけてたか、記憶をなくしたかどっちかや。その間、見た夢がその桃源郷の生活や。しかしや、そんなことはどっちでもええねん。お前がやる気起こしてくれたんやからな。みんな苦労してるんや、お前も普通に苦労せいや。お前のその逃げ腰的な態度見てたら、こっちまでおかしなるんや」
「それなりにやってみるつもりや」
「世話のやける奴っちゃ」
「藤田はアホみたいに人がええな」
「お前相手やからや。お前やからアホになってしまうんや」
「もう昼過ぎやで、会社はええのんか」
「電話貸してくれるか」
「目の前にあるやんか」
 藤田は二カ所に電話をした。会社と得意先らしい。声の調子で分かる。
「昼飯食べてから出かけるわ」
「食べるもん、何もないで」
「食べに行こ」
 藤田は大急ぎで顔を洗い、歯を磨いていた。急いでいる割には歯の磨き方は丁寧だった。
 起きてすぐに、それなりの量のある昼食は食べられないと、運転席の藤田に言うと「それなら駐車場のある喫茶店を探してくれ」とクルマを走らせた。
 僕はアパートから二つ目に遠いほうの喫茶店への道を教えた。
「しばらく来ん間に、このあたりも変わったな」
「雑々しているやろ。まとまりのない風景やろ」
「お前の住んでた桃の里の景色はよかったか」
「年中春で、桃の花が咲き乱れてる」
「そんなアホな。今は秋やないか。見間違えたんと違うか」
「いや、春や」
「秋も春も変わらへんで気温的に。証拠でもあるんか」
「桃の花は秋には咲かんやろ」
 駐車場はいっぱいだった。
「他の店ないか」
 僕はアパートから三番目に遠い喫茶店を教えた。
 僕はカレーを注文し、藤田は焼き肉弁当を注文した。
「そこには喫茶店はないわな」
「ない」
「カレーもコーヒーもないわけやんか」
「レトルトのカレーもあったけど、綾乃のカレーがうまかった。菜っぱやコンニャクが入ってたけど」
「ディテールが出てーるやないか」
「本当の話やからな」僕は笑いながら言った。藤田も笑っていた。
「桃源郷なわけや、そこは……」
「年中春で、不老不死や」
「綾乃は何年や」
「二十三」
「美人か」
「まあな」
「そんなとこ住んでたんやったら、出てこれる道理がないわな。とにかく桃源郷なんやからな」
「それほどでもないけど」
「山の中にぽっかりと、その里があったわけ?」
「丹波篠山」
「ありそうな話やな」
「あった話やから」
「その話は夕べじっくりと聞いたけど、疑問な点が多いで。人間は年をとらんのやったら、あらゆる生物も年をとらんわけや。体の中の細菌もそうや、微生物もそうや。バイ菌も死なんわけや」
「病気では死なんけど、首ちょんぎったら死ぬ」
「植物も成長せんわけや」
「ネギの根を植えたら成長した。ある程度までは成長するねん」
 僕はサツマイモ畑が気になった。うまく育っているだろうか。
「それに里の維持は誰がしているわけや」
「里主の森小路春麿」
「アホ、リアルな名前まで考えるなや」
「里主よりも彦造さんが活躍してるな」
「買い出しのことか」
「調達」
「その金はどこから調達するわけや。金目になるような特産物でもあるわけか」
「彦造さんがお金を持ってた」
「その彦造は、どこでその金を手に入れたんや」
「里主からやと思う」
「その里主はどこでお金を作るのや」
「僕の想像やけど、別の里の仙人が錬金術でもやっているのと違うかな。それか、金の産地があるのかもしれん」
「まあええ、無理すんな。お前も頭が痛いやろ」
 藤田はホットコーヒーを注文した。僕はまだ半分しかカレーを食べていないのに、藤田は焼肉弁当を平らげていた。
「今度、その里へ行ってやな、金塊を持ち帰ってくれや。俺の悩みの九十パーセントはそれで解決してしまう」
「いや、もう戻る気はない」
「困ったな」
「困ってみたなったんや」
「何でや?」
「困るのも悪くない」
「悪いぞ。悪いに決まってるやないか」
「そやな」
 藤田は僕の言っていることを信じてはいないが、信じたことにしていてくれた。僕がもし反対の立場なら、おそらく信じなかったし、全く受け付けないだろう。そして僕もまた、里のことを語りながらも、本当にそんな場所があったのかと、信じられないような気持ちになっていた。
 もし僕に藤田という友達がいなければ、もっと風景が違っていたと思う。僕の人生の中で藤田が占める割合は非常に大きい。現実世界での接点となっている人間は藤田だと思う。人間はいくらでもいる。だが、偶然とはいえ、僕は藤田と共に現実の上に人生を書き込んできたわけだ。
 それは別に藤田でなくてもかまわなった。藤田ではなく、他の誰かと友達になっていたかもしれない。僕が生きていく上で藤田は必ずしも必要な存在ではなかった。藤田と会わなくなったとしても、困らないはずだ。その意味で藤田の存在を無視して生きていくこともできる。
 しかし今は藤田の存在が有り難い。僕にとっての現実は、やはり藤田の世界と重なっているのだ。
 里から帰ってきて思ったのだが、僕にとっての現実は、やはり藤田がいて知子さんがいて、章子がいる世界なのだ。その関係が崩れたとしても、また、似たような関係の人間と付き合って行くだろう。
 僕は人間関係がこれほど人生に関わってくるとは思わなかった。僕の人生は