小説 川崎サイト



ビジネスランチ

川崎ゆきお


 

 店に入るとその男は何事かを決断したかの如く、きっぱりと言い放った。
「ビジネスランチ」
 店長は男をジロリと見た。ほんの二秒ほどで何事かを確信したようだ。
「定期券、見せてもらえますか」
 男はスーツの内ポケットから札入れを取り出し、定期券を抜いて見せた。
「問題はないはずでしょ」
 男の目は泳いでいた。嘘をついていることを示すような表情だ。
 店長は、その泳ぐ目が気になった。これ程までに泳がせてよいものかと、過剰な演技の裏を見ようとした。
「水ぐらい出したらどうですか。僕は客なんですから」
「何か裏があるのですかな」
「ビジネスランチを食べるのに、裏も表もないですよ」
 店長はお冷やを男の前にトンと置いた。こぼれるほどグラスに水は入っていない。
「では、その、いかにも泳いだような目は……」
「この店は客の顔を見て商売をするのか。ただの定食屋ではないですか。客に合わせて調理方法を変えるような店ではないでしょ」
「もう一度定期券を見せてもらえますかね」
「さっき見せたじゃないですか。こういうのは一度だけで十分でしょ」
「その定期券、切れているかもしれない」
 店長は、ぼそりとそう言い放ったが、それで定期券の件は打ち切った。
「いちゃもんをつけるのなら、横のカレー屋へ行きますよ。あなたも少しでも売り上げがあった方が助かるのではないのですか。昼時なのに客は僕だけじゃないか」
「不景気で外食するビジネスマンが減ったのでね」
「だから、僕のことを疑っているのか!」
「お客さんの雰囲気が問題なのです」
「そんな曖昧な根拠で」
「先日もね、女子高生がOLランチを注文しましてね、それはすぐに見抜いて、たたき出しましたよ」
「この店、おかしいんじゃないですか」
「嘘はいけないでしょ、嘘は」
「あなた、変わってますね」
「普通ですよ。お客さん」
「ビジネスランチ出してくれないのですか?」
「サービスランチにしませんか」
「僕はビジネスランチを食べたい」
「サービスランチなら、すぐにでもお出ししますよ」
 男は少し考えている様子だ。
「よい妥協点だと思いますがね」
「どう違う」
「何がです」
 男は、何が入っているのかを聞いた。
「表にサンプルがあったでしょ」
「ビジネスランチだけを見て入って来た」
「大した違いはないですよ。フライものの盛り合わせで、サービスランチはコロッケが入ってます」
「コロッケはいらない。胸が焼けるから」
「どうしてビジネスランチに拘るのですかねえ」
「グラタンが入っているからだ」
「違うね、お客さん。あんたはビジネスマンでありたいから、ビジネスランチを注文したいんだ。だが、あんたはビジネスマンではない。入って来た時から分かっていたんだ。その定期券、切れてかなり経つんじゃないの」
 男の顔は急激に青ざめた。
「ほら、図星だ。ビジネスマンでもない人に、ビジネスランチはお出し出来ないのだよ。あんたにはその資格がないんだ」
「僕はビジネス中だ。今日も職安の帰りだ。毎日そうして働いている」
「だから、どこの会社で働いているのだね、オフィスはどこだね」
「僕はビジネスマンと同じだと言っている」
「同じじゃないよ。その証拠にカード会社に行ってごらん。作ってくれないから」
 男は諦めたのか、席を立った。
「サービスランチなら出してもいいんだよ。でも、ビジネスランチは駄目だ。分かるね」
「僕は、グラタンが付いてる定食を食べたかっただけなんだ」
「そうじゃないでしょ。ビジネスマンになりたいだけなんでしょ」
 男は、これ以上惨めな気持ちになりたくないのか、店を飛び出した。
 通路にはスーツ姿のビジネスマンばかりが行き交っている。
 しかし、ビジネスランチのあるその店へ入る者は一人もいなかった。
 
   了
 
 
 

          2003年4月27日
 

 

 

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