小説 川崎サイト



豚が逃げた

川崎ゆきお



 その店が何故潰れないのか、不思議だった。
 よくあるラーメン屋で、中華ものを一式揃えているが、特徴は全くない。
 近くに飲食店も多くあり、何店かは潰れている。
 私は、その奇跡のようなラーメン屋にたまに入る。
 テーブル席二つとカウンターだけの小さな店だが、満席になったことがないため、その心配だけはない。
 うらぶれた中華屋でラーメンをすするのも悪くはないし、私の趣味にも合っている。
 下手にマニュアル通りの挨拶や、はりきり過ぎて空回りしている店よりは居心地が良いためだ。しかし、毎日行こうとは思わない。
 その日は日曜の夜で、夕食時だった。私はその時間を避けて夕食に行くのだが、すぐにでも何かを食べたいと思うほどの食欲を感じた。いつも、食欲のない私にしては珍しいことだ。
 ラーメン屋の前に自転車を止めた。入り口に若干の余地があり、その僅かなスペースにしか自転車は置けない。
 当然駐車場等はない。道の向こう側にはファミレスがあり、広い駐車場がある。
 ファミレスはラーメン屋より後から出来た。それによる影響はなかったと思える。何故なら最初から流行っていない店で、その状態を今も堅持している。それは維持するための努力とかは必要のない世界だろう。
 私はガラス戸を引き、店内に入った。
 期待を裏切らない状態だった。がら空きと言うより、客は一人もいない。
 私は席に着かないで、立ったまま壁面に貼られたメニューを見た。数年前に初めて来たときと同じメニューだ。おそらく開店時と同じものだろう。何も変化がない。
 変わらないことも、また店の特徴で、模様替えを何度もやる店よりは落ち着く。
 私がしばらく突っ立ったまま微動だにしないので、親父が奥から出て来た。
 ラーメンの種類は少なく、醤油と味噌、それにチャーシューとワンタンメンがあるだけだ。
 私はモヤシラーメンがあったように思い込んでいたようだ。きっと別の店の記憶だろう。
 この店のラーメンは、全くと言っていいほど特徴がない。それはうどんや蕎麦ではなく、中華ラーメンだと分かる程度のものだ。
 冷凍のラーメンやインスタントラーメンのほうが余程美味しいし、特徴もある。
 しかし私は、この何でもない、単なるラーメンを食べたいと思うことがあるのだ。
 モヤシラーメンが見当たらないので、普通の醤油ラーメンにすべきか、ワンタンメンにすべきか、チャーシューにすべきか……と悩んだ。早く決めて座りたい。
 私はこの店で、一度も食べたことのない味噌ラーメンを注文し、席に着いた。
 客はいないのだから四人掛けのテーブルを独り占めした。テレビが正面にある特等席だった。野球中継をやっている。
 混雑している店でも、もう少し早いのではないかと思えるスピードで、味噌ラーメンが出て来た。
 醤油ラーメンとの違いは、味噌が入っていることだ。それだけなのに値段は高い。
 いつもはスープが澄んだ醤油ラーメンなので、味噌の濁り具合、不透明感が新鮮だった。
 味噌を入れただけで、これだけ趣が異なる。
 私はスープを口に入れた。味噌の味はするが、だからどうなんだと言うほどの味ではない。
 醤油ラーメンと同じように、平凡な味だ。それを求めて来たのだから期待通りの味だと言える。
 拘りのあるラーメン屋に来なかったのは、ラーメンで驚いたり、刺激を受けたくないため。
 単にうらぶれたラーメン屋で、味もそっけもないラーメンを食べる……それが目的なのだ。
 モヤシラーメンがなかったことは期待外れだが、味噌ラーメンにもモヤシは入っていた。
 いくらあっさりとしたラーメンでも、多少は油が浮いている。それを味噌が押さえ込もうとしている。割り箸でかき混ぜながら、そのドラマを鑑賞した。
 そのときである。私の頭の中で、嫌な予感がしたのは……。
 しかし、そんなことはないだろうと、その疑惑を否定し、テレビを見ながら麺をすすった。
 野球中継は日本シリーズの二戦目らしい。セリーグが優勝すれば、近くのスーパーがセールで賑わうだろう程度の関係しかない。
 試合は一方的にセリーグが有利なようで、大差がついてしまい、ゲームとしての面白さは消えていた。
 どの選手が、どんな活躍を演じようと、試合には影響しないだろう。
 私はラーメンを食べるとき、スープは殆ど残している。しつこいので全部飲むと胃が重くなるためだ。
 ここのラーメンはあっさりとしているものの、やはり飲む量は控えている。
 味噌ラーメンのスープは思ったより濃く、粘り気がある。そのため、スープを殆ど残した状態で、具だけを引き上げたような気がする。
 割り箸でかき回すと、モヤシのかけらが引っ掛かった。
 そして、増々私の恐れていたことが現実のものとなりつつあった。
 左側を見た。カウンター席で誰もいない。そのまま後ろを見た。親父は居間にいるのか、厨房は無人だ。
 もっと活気のある店で、バイトの店員でもいれば、言えただろう。いや相手にもよる。やはり何も言えないままかもしれない。
 ましてや、あの親父には絶対に言えない。また、聞くことさえ出来ないだろう。
 私は割り箸を置き、お冷やをぐい飲みし、ガタンとテーブルの上に戻した。
 私は立ち上がった。
 何処から見ていたのか、または気配を感知したのか、親父が出て来た。
 私は財布から千円札を抜き出した。
 親父は同時に小銭を手に握っていた。
 千円札を渡すその手で、釣銭を受け取った。
「ありがとうさん。またお越し」
 もう、二度と来るかい……と私は心の中で呟きながら店を出た。
 私は恐れていたことが事実となった。
 それはラーメンの中に、あるものが入っていなかったのだ。透明な醤油スープなら、親父も出すときに気付いたかもしれない。
 味噌ラーメンの不透明さが災いしたのだ。
 私は決して知らぬ間に食べてしまったのではない。
 親父が、それを入れ忘れていたのだ。
 それを問いただすだけの勇気は私にはなかった。
 この店が潰れないのは不思議な現実だという他ない。
  
    了
 


          2003年10月24日
 

 

 

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