近所の喫茶店が臨時休業でシャッターが閉まっていたので、私は自転車で、ひとつ向こうの町まで走った。
まだ朝は早いのだが、大きなチェーン店の喫茶店がこの時間でも開いていることを知っていた。
私は一日の始めに、まず喫茶店に入らないと落ち着かないたちなのである。
駅前に出ると、その喫茶店は真面目に開いていた。年中無休の店だがコンビニで弁当を買うより高いコーヒーを飲むことになる。しかし、それをしないと一日が始まらないのだから仕方がない。開いているだけでも有り難いと思うべきだ。
さて、自転車を止めようとしたのだが、置く場所がない。駅前開発で巨大なスーパーが建つショッピング街となっているため、個人商店の前とかに、こっそり止めることも出来ないし、また銀行の自転車置き場も、この場所にはない。銀行はあるのだが、ショッピング街の中に入っているため、銀行が持つ土地がないのだ。
以前、この喫茶店へ自転車で来たときは、ショッピング街専用自転車置き場を利用した。それで止める場所は大丈夫だと考えていたのだ。
どうやらショッピング街が開くまではお客様専用一時駐輪場所は閉鎖されているらしい。
ロープが張られており、その中には一台の自転車も残されていない。
その喫茶店はショッピング街の中にあり、しかも営業しているのだから、駐輪場所が使えないのは不便だ。世の中には例外があるので、その程度のことで真剣になるようなこともないと思い、裏道にでも止ようとしたのだが、ショッピング街の敷地は思ったより広く、探すのが面倒なので、歩道の脇を探したが、係員がじっと監視しているのが見えたので、それも出来ない。
喫茶店がすぐ脇にあるのだが、その前に止ることが出来そうにないことは、雰囲気で分かる。歩道のように見えるが、実際にはショッピング街の敷地であり、通路なのだ。
もし止めれば、さっと係員が仕事をしに駆けつけるだろう。
私は仕方なく有料駐輪場に入った。ただでさえ高いコーヒーが、さらに高くなるのだが、仕方がない。
そしてやっと喫茶店のソファーに座ることが出来た。尻が痛くなるようなファストフード店の椅子と違い、ゆったりと座れる。テーブルと椅子の間隔も広いため、足も延ばせる。
かなり前なら、この程度の店は何処にでもあったのだが、最近はファストフード店やセルフサービスの喫茶店に押され、普通の喫茶店は消えつつある。
私は喫茶店で本を読むのを習慣にしている。一日は読書から始まるのだ。
小一時間ほど経過した頃、活字を追うのが辛くなってきた。先日買った文庫本の活字が小さすぎるためか、この老眼鏡では度が合わないようだ。そろそろ度数を上げたものに替えなければいけないと考えていた。幸いショッピング街に来ているのだから、いい機会である。
私は喫茶店を出て、ショッピング街となっている巨大なビルの中に入った。
この駅前は昔から知っており、子供の頃から何度も来ていたのだが、駅前開発後は馴染みのない場所となり、来ることは殆どなかった。大型スーパーに用がないのも理由だろう。
朝が早いためか開店しているフロアは少ない。開発前、この辺りにあった商店などが入っているフロアは、スーパーの開店時間に合わさないで早く開けているようだ。
七階建ての建物が四練ある。都心部のデパートでも、それほどの売り場面積はないだろう。
個人商店のメガネ屋を見つけ、中に入り、老眼鏡を見るが、かなり高いし種類も少ない。
私がいつも買う店は大型チェーン店かバッタ屋だ。品数も多いし、なにより安い。
私はスーパーが開くまで待つことにした。大型スーパーなので、そこそこの品が並んでいると期待したからだ。
私は喫茶店の前に戻った。駅の改札が見える。降りる人より、乗る人の方が多い。ショッピング街とはいえ、結局はビルの中での話である。街がそこにあるわけではない。営業時間中しか機能しない街なのだ。
私は向かい側のビルを見た。四つの建物には一号館二号館と名前が付いているが無機的で、何を売っている建物なのかが分かりにくい。
喫茶店が入っている建物が何号館だったのかさえ分からない。
私は駅の改札前まで来た。そこからショッピング街を見ると、中央はバスやタクシーのターミナルになっている。ちょうど中庭のような感じだ。
私の記憶が正しければ、右側の喫茶店の場所に小さなパチンコ屋があった。左側は飲食店や映画館があった。
一体どれだけの店や民家が取り壊されたのだろう。当時そこにあった道や路地も消えている。それはダムに沈んだ村のようなものだ。
私は左側のビルに入った。銀行がそろそろ開く準備をしている。その上の階へ上がると、大型スーパーのフロアになるはずだ。
まだ開店前なのかシャッターは降りたままだが、通用口からそっと中に潜入した。
改装中なのか、化粧板が張り巡らされている。
ビルの床面積から考えれば、狭すぎるフロアだ。化粧板の向こう側にもっと広い空間があることは推測出来る。
私はその上の階へ非常階段で上ってみたが、下と同じ状態だ。この調子で七階まで工事中なのだろうか。
私は化粧板の透き間から奥を見た。暗くてよく分からないが、非常灯だけが灯る車の姿がない駐車場に近い光景だ。所々にコンクリートの柱が見えるだけで、がらんどうだ。
何が起こったのだろうか。
化粧板をたるんでいる箇所があり、そこを少し押さえると継ぎ目がぺきんと弾け、縦型のロッカーのような透間が広がった。私は中に潜入した。
化粧板の裏面はベニアの木肌をそのまま残している。仕切りというより、目隠し用の板なのだ。
そして隠しているのは、何もない空間でしかない。何もないことを隠しているのだ。
窓は外から見えないよう、こちらも目隠しが施されている。
明かりは非常灯だけで、非常階段の方向を指さす矢印が浮かび上がっている。
中央部まで進むと妙な唸り音が聞こえ、身体にも振動が伝わってきた。
聞き覚えのある音だ。この建物の一階にパチンコ屋があるため、その音がこの階にまで伝わってくるのだろう。
上がりのエスカレーターを発見するが、当然のことながら動いていない。
私はつんのめりながら止まっているエスカレーターの階段に一歩踏み込み、すたすたと駆け登った。
その階も下と同じ状態で、空っぽのフロアが不気味な暗さで広がっている。
薄暗がりの中に動くものがある。私はエスカレーターの階段を少し降り、身体を隠した。
動いていたのは野良犬だった。雑種の赤犬で、私を見付けたようだ。大人しそうな感じなので、私はエスカレーターを上り切り、赤犬の鼻先に指を持っていった。挨拶である。
赤犬は私の指をなめ始めたので、頭をなぜてやった。
ここに住み着いているのだろうか。しかし食べ物に苦労するだろう。確かに雨風は凌げるので犬小屋の代わりにはなるかもしれない。
赤犬は私が食べ物を持って来た人間ではないと諦めたのか、隅の方へとぼとぼ引き返した。やはりここが寝床になっているようだ。
この感じだとホームレスに居着かれそうだが、その気配はない。彼らにとっては不便な場所なのかもしれない。
この大手スーパーのメイン売り場であるビルが、巨大な犬小屋となっていることは、ある意味痛快だ。
赤犬は隅っこで寝転んでいる。そこだけゴミが散乱している。赤犬が咥えて来た物か、誰かが与えたた物に違いない。
私はそのゴミの中から、小さな舟を発見する。赤犬が散々なめ回したのか、洗ったばかりのように奇麗だ。
タコ焼きやコロッケを入れる舟だ。その近くに青い紙が落ちている。間違いなく包装用の紙だ。
私は少し妙な気持ちになってきた。薄暗くてよく分からないが、その青い紙をよく調べればコロッケなら油が付着しているはずだし、タコ焼きならソースが付いているかもしれない。赤犬はこの紙もなめたらしく、この明かりでは確認は出来ないのだが、問題はそういうことではなく、今頃そんな容器や紙を使う店があるのだろうかという疑問だった。
ここは大手スーパーのショッピング街だ。食品売り場があり、コロッケぐらい売られているだろう。しかし、合成樹脂ならともかく、本物の舟の容器を使うとは思えない。
私はゴミを見渡した。包装紙がもう一枚見つかった。舟にコロッケを入れ、青い紙をその上に当て、この包装紙でくるんでいた。その紙は白く、何やら印刷されている。
私は非常灯の下まで行き、その文字を読み取った。上田の肉と書かれている。聞き覚えのある精肉店だ。つまり、このコロッケは肉屋のコロッケなのだ。
上田の肉はこの近くにあった店だ。子供の頃、母親について買い物に来た時、この精肉店でコロッケや鯨のカツを買った覚えがある。だから覚えている。
それと、店の名前まで記憶しているのは、他にも理由がある。学生時代、よくここにあった映画館に通っていた。スクリーン一杯に上田の肉と大きく映し出されていたのを何度も見ていたからだ。当時、スライドの広告があったのだ。
私の背筋を震わした妙な気配はそれだけで、ゴミの中からはそれ以上の物は出てこなかった。
赤犬は不貞腐れたように顎を床に押し当て、居眠り態勢に入った。
私はこの上のフロアも気になり、止まっているエスカレータを上った。
下と同じ感じで、特に変化はない。猫でもいるのではと期待したが、まさに猫の子一匹いないゴーストタウンだった。
その上の階も同じだろうと思い、私は窓際に近付いた。見るべきものがないため、下の風景でも眺めて帰ろうと思った。老眼鏡は郊外にあるチェーン店で買えばよい。
垂れ幕のようなものをめくるとガラス窓の向こうに明るい空があった。向こう側の建物が見える。屋上には観覧車が円を描いているが回っていない。
バスが止まっており、時たまタクシーが入ってくる。一般車両は見当たらない。
何処かで喧嘩でもしているのだろうか? 怒鳴り声が聞こえ、争っている物音が聞こえる。
私は後ろを振り返った。
音はこのフロアから聞こえているのだ。
私はフロア内をうろうろした。確かにこの辺りから聞こえてくるのだが、正体が見えない。
フロア内を歩いているうちに一つのことに気付いた。それは、下の階より、こちら方が狭いことだ。
化粧板の仕切り方が違う。
私は四隅をなめるように見た。仕切りは三方にあり、窓のある壁だけはそのままである。
私はエスカレーターの後ろ側が、狭いのではないかと思い、化粧板まで一気に走った。
喧嘩は続いているようだが、別の音と聞き違えているのかもしれない。
私は化粧板に耳を当てた。今までよりもよく聞こえた。この仕切りの向こう側に、喧嘩のように聞こえる何かがあるのだ。
私は化粧板の繋ぎ目を何カ所か押したり引いたりするが、僅かに軋むだけで動かない。何処からも出入り出来ないように封じ切っているのだろうか。そんなはずはない。この奥の空間に入る用事があるはずだ。
私は建物の壁と化粧板の接点が脆いのでは……と考えた。そしてぐっと押すと、ずるっと向こうへ動いた。この仕切りは単に立て掛けているだけなのだ。さらに強く身体ごと押し付けると、透間が開き、私は身体をこすりつけるように中に滑り込んだ。
高倉健が殴り込んでいた。子分たちのダミ声、倒れる障子。喧嘩の声はこれだった。
スクリーンは下の方に小さく見える。
そこは映画館の二階席だった。
昭和残侠伝の何作目かだ。助っ人の池部良が斬られた。高倉健も額から血を流している。悪役の親分は追い込まれ、斬られる寸前だ。
私は二階席の一番前に出た。一階席には誰もいない。
確かに昔、この場所に映画館があった。二階席のある大きな映画館で、三つの映画館が並んでいたのだ。大型スーパーの建物はその跡地に建てられた。
映画館は地下に移されたようだが、その後入ったことはない。
私は間違って映画館に紛れ込んだのではない。こんな早い時間に映画館は開いていないし、数十年前の東映任侠映画を上映するわけがないのだ。たとえリバイバル上映であったとしても客がいないではないか。
私は二階席の一番奥を見た。あるはずの映写室がない。
傷ついた高倉健と池部良が雪の中をふらつきながら遠ざかる後ろ姿。大きな完の赤い文字が画面に出る。
場内は明るくならないまま、石原裕二郎のレコードを流している。そして連れ込み旅館や市場の広告スライドが小気味よくカットを送り出す。
その中に上田の肉も映されていた。
了
2003年5月24日
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