小説 川崎サイト



布団船

川崎ゆきお


 

 布団から出ると地獄が待ってるぞ。
 起きてもすることがないだけのことで、地獄のような現実が待っているわけではない。
 時計は午後を指していた。寝過ぎたわけではない。朝方に寝入ったためだ。
 布団の船から降りると、現実が待っている。しかし、何を書き込めばよいのか分からないような現実だ。日記をつけていたとしても、書き記すことなど何もない。
 そういう現実しかないのだから、布団の船から降りても、めくるめく楽しい現実など期待出来ない。
 私は枕元のノートパソコンを開き、ネットに接続した。取り敢えず何かで時間を埋める必要がある。
 メールをチェックするが、広告しか受信しなかった。誰にもメールを書いていないのだから、返事が来るはずがない。
 しかし、私の現実を変えてくれるようなメールが届くかもしれない。可能性としてはあり得る。
 私を布団から引き摺り下ろしてくれるほどの展開、めくるめく拡がる現実……そんなものを期待していた。期待するだけは無料だ。
 トイレに入った私は煙草に火をつける。吸い殻が灰皿を隠すほど溜まっていた。ちょっとした小山になっている。富士山のような裾野が形成されている。
 トイレから戻った私は布団の船を見た。乗る面積が狭くなっている。部屋が散らかっているためで、訳の分からない物が布団の上に乗っていた。積み上げていた物が、雪崩のように襲ってきたのだろう。いや、崖崩れかもしれない。
 そういえば、足に傷が出来ている。寝ているとき、瓦礫のようなものと接触したのだ。
 船の周りは海だ。それは瓦礫の海。正体を失った瓦礫。夢の残骸だ。
 瓦礫の中に動く物がある。目覚まし時計の秒針だ。ここ数年、この目覚ましをセットした回数は何度もない。目覚ましが鳴っても船から出ようとしないため、当然約束時間に間に合わない。遅刻だ。しかも一時間以上の遅刻。
 そこまで遅れてしまっては、待ち合わせ場所へ行く気もなくなる。日を間違えていたとかで、誤魔化すしかない。
 そんなことを繰り返すうち、誰も約束してまで会おうという人はいなくなっていた。
 目覚まし時計の電池は長持ちするのか、まだ秒針は動いている。
 夢は願望を表している。当たっているかもしれない。気持ちのいい夢を見た。至福感があった。夢の場所は何処だろう。何度も登場する場所だ。子供の頃、鎮守の森へ向かうときの小道に似ている。石垣や土手があり、竹藪がある。農家の物置がある。それに近い映像だ。
 夢の中で私は只々歩いている。起きたときには覚えていたが、今はどうしてそこを歩いていたのかは忘れている。残っているのは至福感。心が、気持ちが、癒される思いだけが残っている。全て無料だ。
 窓から風が入る。取り出していないファックス紙が揺れる。端が赤い。感熱紙が変色し、そこに何かがプリントされているのだが、数ヶ月前の情報だ。その後ファックスは届かない。
 夢の船である布団の船の船首に枕を三つ積み重ね、そこに頭を乗せ、テレビを見る。躁状態な番組ばかりの民放を避け、NHKにしかセットしていない。
 モニターから社会が見える。世間が見える。これは覗き穴だ。
 今、世の中がどんな感じで、どんな風潮なのかが伝わってくる。実体験しなくても、それを知ることが出来る。疑似体験ではない。現実に起こったことを伝えているのだ。モニターの中に現実はなくても、動かしがたい現実があったことは伝わる。台風が接近していないのに、偽の台風情報を流するわけがない。見えてはいないが、太平洋上で、本当に台風が発生しているのだろう。
 昨日よりは風がある。やはり台風が接近し、その影響が空気となり、窓からそれを押し出しているのだ。モニターの中と、現実とが繋がっている。
 寝返りを打ったとき、腕で雑誌の山を崩したらしく、つるんと一冊の雑誌が滑り落ちてきた。
 コンビニで買ったパソコン雑誌だ。インターネット関連の記事が載っている。雑誌の中には現実はないが、記事は現実の何かを指している。
 ペラリとページをめくる。一度見た記事と再会する。半年前の情報だ。もうその記事の向こう側の現実は風化しているだろう。
 いつまでも布団の船に乗っているわけにはいかない。夢の船は睡眠状態にならないと上映されない。それまで、かなり時間がある。
 冷蔵庫を開けるが、食べられそうなものは入っていない。味噌があるが、それだけを舐めるわけにはいかない。芽が二十センチも延びた半切りの玉葱など食べる気がしない。
 コンビニ野菜より、スーパーの野菜を食べたい。この時間なら、まだ間に合う。外に出ないと餓死する。餓死する前に空腹感で、自然に動くだろう。餌を求めて食べ物屋へ走るはずだ。真夜中でもファミレスや牛丼屋は開いている。
 素麺の貰い物があることを思い出した。瓦礫の下敷きになっているはずだ。
 案の定、木製の箱に入った玉手箱のようなものが見つかった。スーパーで売っている素麺よりも上等かもしれない。
 素麺の玉手箱は意外に重い。蓋を開けると瓶が二つ入っていた。出汁だ。
 私は早速湯がいた。情けないほど素麺の湯で時間は短い。殆ど待ち時間なしで、食べられる。
 私は適当な容器に素麺と出汁を入れ、本を積み上げた疑似テーブルの上に乗せ、疑似朝食とした。
 素麺が長い白髭のように思えた。仙人の白髭だ。仙人は山谷に籠もるが、私は寝床の布団に籠もっている。籠もることでは違いはない。同じことだ。いずれも社会との接点が希薄だ。
 布団船は瓦礫の海の中を航海するが、私は水には注意している。飲み残しの缶コーヒーやペットボトルなどは、こまめに捨てている。こぼすと布団が濡れるので嫌なのだ。海底である畳も湿気させたくない。湿気ているのは私の身体だけで十分だ。
 布団船は夢の中でしか航海しない。起きている間は巨大な座布団のようなもので、座を占めたまま動くことはない。
 夢の中で、いくら航海しても現実は何も変わらない。単に時間が経過し、日が、そして月が、そして年が経過するだけ。その意味で変化は生じているのだが、生産的なものではない。
 布団船は時間を消耗させていく。夢は生きている間だけ見ることが出来る。そのため、夢を見るのは生きていることの証だ。
 がちんと甲高い音が聞こえた。風呂のガスを点火した音だ。階下の住人が会社から帰ったのだ。一日の労働を癒すための入浴だ。
 私も風呂に入りたくなった。おそらく入浴が一日の中で最も体力を使う行為になるだろう。
 瓦礫の海が布団に浸水してくるため、たまに足で押し返す。それ以上押せなくなる瞬間がある。強情な物が、押されるのを嫌っている。
 開いたままの押入に足を入れる。押入は船着き場のようだ。そこに足を乗せるとひんやりする。
 ひんやりとした物体は金属製のカメラだった。今はもう使っていない押入カメラ。仕舞われたまま一生を終えるのだろう。
 そのカメラで写したフィルムはもう残っていない。カメラだけが残った。まだ使えるのなら、写し続けることも出来る。そんな機会があるとは思えないが、可能性としては残る。
 私が写したいのは夢の中の風景かもしれない。そこで写しても、夢の中からは持ち帰れないだろう。
 素麺腹とは言ったものだ。食べた直前なのに、もう腹が空いてきた。もう少し硬く、歯ごたえのあるものが食べたくなった。
 せんべいやおかきが頭に浮かんだ。
 私はそれを囓りたいと思った。
  
 
   了

 

 

 
  
          2003年4月24日
 

 

 

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