小説 川崎サイト



癒し烏賊

川崎ゆきお


 

 何もしたくない日がある。デザイナーの白石は、今日はその日だと思った。
 思ってしまうとどうにもならなくなった。やはり今日は仕事にならない。
 大阪天神橋商店街から少し入ったところに事務所がある。小さなスペースを白石は一人で借りている。
 近くに同業者が多い場所で、白石は印刷所から仕事を貰い、細々とやっていたのだが、ある日、急に忙しくなった。本職ではなく、趣味で作っていたホームページが注目されたのだ。
 白石は医療関係者の名刺を百枚以上持っている。名刺のデザインを研究しているわけではない。名刺交換で得たものだ。名刺収集家ではない。いずれもホームページを見て訪ねて来た人々だった。
 白石はデザイナーになる前はアニメーターになりたかった。動画作家である。しかし食べていけないことが分かり、大人しく地味なデザイナーとして暮らしながら、趣味でアニメを作っていた。
 そのアニメをホームページ上で公開した。烏賊が泳いでいるだけの単純なアニメだった。本物の烏賊の動きを真似たものではなく、不規則にグニャグニャと優雅な動き方をした。
 その動きに癒し効果があるかもしれないので使わせて欲しい、とメールが来た。精神科の医者だった。似たメールが次々に来た。
 白石は本職より、烏賊のアニメで忙しくなった。こんなアニメが医療に役立つとは思いもしなかったのだが、お陰で仕事が増え、印刷所の仕事を上回った。
 その日、何もやりたくない気持ちに襲われたのは、ある意味で一時の興奮が収まり、平常に戻ったためかもしれない。
 白石は事務所のビルの階段を降り、商店街へ向かった。いつもなら地下鉄の駅へ向かう道なのだが、今日は天神橋商店街のアーケード内を当てもなく歩いた。
 アーケードは道路に蓋をしている。まるで洞窟のように長く続いている。この商店街は日本最長らしい。
 白石はゆっくりと歩いた。急ぐ用事がないためだ。この商店街で買い物をしたことはない。衣料品は梅田まで出ないと気に入ったものは見つからなかったし、日用品はコンビニで買う方が揃いやすかった。大きな商店街なのだが、長いだけなのだ。しかし雨の日はアーケードが役立つ。その程度の関わりしかなかった。
 白石は天満宮の近くまで来た。まだ先は永遠に続いており、洞窟の出口は見えない。端まで行けば引き返すつもりだった。
 どの店先の前を通っても白石が寄れるような店はない。
 白石が今欲しいのは不自然ではない状態で歩ける歩道だった。商店街はそれを満たしている。
 しかし終わりのない商店街はない、やがて出口が近付いて来た。アーケードが果てる地点である。蓋はそこで終わっており、空が見えた。
 日本一長いといっても、ちょっとした散歩時間で歩き切れる。
 洞窟の出口が見えたところで引き返すことにした。
 白石は烏賊について詳しいわけではない。蛸の方がキャラクタ化しやすいかもしれないが、そういうつもりで作ったものではない。烏賊のつもりだが、現実には存在しないような烏賊で、図鑑を見ればそれに近いものが見つかるかもしれないが、その動きは無茶苦茶だった。
 白石は烏賊が泳いでいるところをテレビで見たことがある。自分の烏賊の動きとかなり違っていた。生物的にはあり得ない動きかもしれない。泳いでいるというより、体を動かしているだけで、その動きも無駄が多い。
 また、烏賊の頭だと思っていた箇所が実は胴体であることも後で気付いた。人間のように首のようなくびれがないため、分かりにくいのだ。
 別に烏賊である必要はないと医療関係者は言ってくれた。欲しいのはこの動きだと。
 白石は事務所に戻る気で、元来た道を戻っている。
 その歩き方は漂っている感じだ。地に足が着いていない。
 幸い道は一本道で、迷う必要はない。瞑想しながら歩いても、目さえ開いておれば進むことが出来る。
 たまに自転車が音もなく近寄り、スーと追い抜いて行く。自転車はうまく人を避けながら優雅に滑っている。ママチャリのフロントバスケットから荷物がはみ出すほど積んでいるのに、主婦は慣れた泳ぎ方で進んでいる。
 白石はその動きが気に入ったが、自転車を画くのは面倒だと、そのアイデアを取り消した。
 ふらふらと彷徨い歩きながらも、白石はきっちりと直進していた。かなり歩いたはずで、そろそろ曲がらないといけない。
 JR天満駅周辺に差し掛かる。白石の頭の中の彷徨い度がかなり上がっている。見慣れた風景のため、前方をよく見ていないのだ。
 そこに自転車が突っ込んで来た。白石は動物的反応だけで避けた。相手もさっとブレーキをかけ、さっとハンドルを切ったので、接触しなかった。
 自転車とぶつかりそうになることはよくあるので、白石は気にも留めず、先へ進んだ。
 寿司屋の角を左に曲がれば事務所のある通りに出る。
 白石は印刷所からの仕事を最近断っていた。烏賊のアニメで忙しく、また収入の桁数がひとつ違っていたので当然のことだと思っている。
 いつまでも美味しい仕事が続くとは考えてはいないが、同業者の殆どは、この長い不景気で仕事が減り、事務所を畳む者も出ているのだから、嬉しい悩みである。
 しかし、烏賊景気が去った後、再び印刷所の仕事に戻ることは目に見えている。
 白石の頭の中は心配事で満ちており、商店街など見えていないのだ。
 烏賊は不安定なのではないか。動きが分かりにくく、掴み所がない。烏賊にしてみればごく自然な動き方をしているのだが、人の目から見れば不可解な動きだ。足だと思っていたものが触覚だったり、烏帽子のような頭だと思えば胴体だったりする。前に進んでいると思っているのに、実は後ろへ泳いでいたりする。
 白石は、烏賊のそのような動きに魅力を感じていたが、烏賊そのものを深く研究していたわけではない。精神医療関係者が烏賊に興味を抱くのと同じ距離かもしれない。
 白石は烏賊のような性格ではない。自然界にあるものを人の感情を通して性格付けすることが間違いなのだ。
 グニャグニャとした動き、優雅に泳いでいるかと思えば、スーと矢のような素早さも見せる。
 しかし今日の白石は、何もしたくない。印刷所の仕事では、そんなことは起こらなかった。決まりごとを決まりごと通り粛々とこなすだけの日々だった。
 天満駅前からかなり奥へ入ってしまったことに、白石は気付いた。やっと視界が現実を映し出したのである。
 このまま進めば天六の駅に出てしまい、そこで商店街は果てる。
 結局白石は天神橋商店街を踏破したことになる。余程の暇人でなければそんな歩き方はしないだろう。
 浮いたような話の仕事をしている……。
 浮かれたような仕事だ……。
 白石は妙な不安感に襲われた。今日、仕事をする気になれない原因はこれかもしれない。
 まだ十代後半で、将来何になるべきかと考えていた頃、こんな歩き方をしたのを思い出す。それ以来のことかもしれない。無性にいたたまれない気持ちとなり、今日のような彷徨うような歩き方をしていた。
 あの頃、その後どうなったのかは思い出せない。嫌な記憶でもあったのだろうか。
 白石は引き返すつもりでいながらも、前に向かって進んだ。昔の記憶を手繰り始めたため、周囲の景色も見えなくなっている。引き返すことは仕事場に戻ることになる。もう少し、この歩き方、いや、泳ぎ方を続けたかったのだ。
 しかし不思議なことが起こっていた。既に天六の駅を越える距離を歩いているはずなのにアーケードは続いているのである。
 さすがに現実から目を逸らせていた白石も、この異変が気になった。勘違い、または何等かの錯覚に違いないと思いながら、風景にピントを合わせた。
 何と、南森町付近を歩いていることに気付いた。商店街を切断する道路。その角にあるコロッケ屋。このまま歩けば天満宮だ。
 白石は烏賊のような泳ぎ方をしたのだ。前を向きながら後ろに矢のように進んでいたのだ。しかし、白石には後ろ向きで歩いたつもりはないし、今も前を向き、前に向かって歩いている。
 後ろ向きなら確実に何かにぶつかっているはずだ。
 白石はピンと来るものがあった。そこまでボケていないことを知り、ほっとした。それは天満駅近くで自転車を避けようとして逆を向いたのだ。それを忘れたまま前進していただけのことだ。
 いくらぼんやり歩いていたとしても、角の寿司屋が目に入れば自動的に左折していたはずである。それがいつまで経っても視界に入らないため直進し続けただけのことなのだ。
 白石は急に目が覚めたように、我に返る。その我とは烏賊のアニメを数多く作り、医療に貢献する仕事に戻ることだ。
 白石の作った烏賊のアニメは精神科の待合室などでビデオで映されたり、医療現場でも使われているのだ。
 遊びで作ったアニメが仕事になっただけのことで、アニメ少年だった頃からの夢ではないか。印刷所のデザイン仕事は食べるために仕方なくやっている仕事なのだ。
 白石は、この自覚が欲しかったのだ。そして目から鱗が落ちたように、引き返した。
 だが、天満駅前を過ぎても角の寿司屋は見つからず天神橋商店街は、何処までも何処までも、水平線の彼方まで続いていた。
 
   了
 
 


          2003年6月2日
 

 

 

小説 川崎サイト