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模擬試験

川崎ゆきお


 
 瀬田克彦は前輪が曲がった自転車を見ていた。
「放置するか」
 決心は早かった。リサイクルショップで買った自転車なので、さほど愛着はない。
 瀬田は線路沿いの道を歩き出した。酔い覚ましにはちょうどよいかもしれない。帰ってからテストの採点をしないといけないからだ。
 塾の講師は今年で四年目。時間給も上がっている。バイトとしての効率はいいが、いつまでも続けられる仕事ではない。
 石田駅まで二駅近く歩かないといけないが、私鉄の支線は駅と駅の間隔が短い。大した距離ではない。
 瀬田はかなり酔っていたが、線路沿いの一本道なので、迷いようがない。
 しばらく行くと、妙な建物が眼前に現れた。毎日通っている道だ。いつもと違うものがそこにあると、気付きやすい。
 瀬田はそれに近付くうちに、何であるのかが分かった。
 電車が止まっているのだ。
 建物のように見えたのは、電車の窓のためだ。終電車は既に終わっている。事故でもあったのかと思い、間近まで寄ってみた。電車のドアは開いており、乗客が居た。車内は静まりかえっている。
 瀬田はよじ登るように乗り込んだ。
 
   ★
 
 事故を起こし、修復が遅れ、待たされ続けた疲労感のようなものが乗客に漂っていた。瀬田が意外に思ったのは客の雰囲気よりも客層だ。終電車の客にしては老人が多く、子供もいる。
 電車で通っている塾の子供も十時台の電車で帰っているはずだ。
 瀬田は空いている席に腰掛けた。
 眠気が襲ってきた。
 ドアが閉まった。点検でも終わったのか、発車するようだ。
 ガクンガクンと四両編成の電車が動き出す。
 瀬田は電車の揺れに合わせるかのように、船を漕ぎ出した。
 僅かな時間、夢を見ていた。
 それは未だかって体験したことのない夢だった。今までとは違う種類の夢。夢が映画だとすれば、いつもの映画館とは違う劇場で観た感じだ。夢の内容は覚えていない。それよりも夢の見方が印象に残った。目を閉じて眠っていたのだが、目を開けたまま見ていたのではないかと疑った。
 車窓風景は見慣れた町並みが流れている。新町駅は既に通過しており、石田駅に近付いている。ちょうどいいタイミングで目を覚ましたことになる。おそらくこの電車はトラブルを起こした終電だろう。石田駅を通過してしまえば、終点の手塚駅から歩いて戻らないといけない。
 しかし、電車は石田駅に近付いてもスピードを緩めない。この支線は普通電車しか走っていないのに……。
 まだこの電車は故障しているのではないかと、心配になってきた。ブレーキが故障しているのかもしれない。
 アナウンスは全くなかった。瀬田は一番後ろ側の車両の中程に座っている。車掌室を見るが、客席との間はカーテンで、中は見えない。
 電車は石田駅のホームを通り抜けた。降りる人もいるはずなのだが、乗客は静かだ。
 瀬田は夢の続きをまだ見ているのだと合点した。少し受け入れにくい現実だが。
 
   ★
 
 瀬田がさらに驚いたのは、終着駅の手塚駅さえも通過したことだ。この支線は本線とはレールでは繋がっているが、引き込み線以外で使われることはない。もしかして車両事故を起こしたため、本線の車庫へ行くのかと思ったが、終着駅でも止まらない説明にはならない。
 電車はゆっくりとしたスピードで本線を走っている。
 瀬田は携帯電話を覗いた。デジタルの数字は二時台を表示していた。
 とんでもない夢の中に迷い込んだことを、瀬田は改めて確認した。こうなると、現実的な判断は無駄なのを、今まで見た夢の経験から推し測れた。そのうち自分の意志さえままならぬ動き方になることも。
 
   ★
 
「先生」
 瀬田はその声で目を覚ました。塾の教壇で居眠りをしている絵が浮かんだ。
 しかし、相変わらず電車の中で、目の前に少年が立っている。知っている子供だ。
「僕、前の車両に乗ってました」
「君は……野田君?」
「塾ではお世話になりました」
 瀬田は野田少年を教えたことがある。しかし半年前、心臓の手術で入院した。
「もういいのかい?」
「歩けるようになりました」
「では、また塾に来るか?」
 少年は答えなかった。
「どうした?」
「後で、ゆっくり考えて、お母さんと相談します」
「そうか」
「先生も行くのですね」
「何処へ?」
「終点まで」
「ところが野田君、この電車、終点を超えたよ。知ってるだろ」
「終点は宇喜多駅だと思います」
「どうして、それが分かる?」
「切符を持ってますから」
 野田少年はポケットから切符を取り出し、見せた。
「ミステリー電車か」
 少年は答えない。
「君は何処から乗った」
「井川駅からです」
 井川駅は塾のある町で、あの支線の終点だ。
 井川駅から出発した電車が途中で停車していたことになる。
 少年はポケットから、もう一枚切符を取り出し、瀬田に見せた。
「特急券」
「この私鉄には、特急券や指定券とかはないはずだけど」
「この電車は特急なので、終点まで停まらないはずなのに、あそこで停まったから、おかしいと思いました」
「僕は自転車を捨てて飛び乗ってしまった」
「だから、先生は切符がないのですね」
「無銭乗車でミステリーツアーに参加してしまったのか」
 少年は黙っていた。瀬田の質問に答えるための説明が出来ないためだ。
 瀬田は自分が置かれている状況を理解すべきかどうかを考えた。これが夢なら一方的に何かが次に起こるはずで、夢の中で思案しても無駄な気がした。
 夢を見ている時間は一瞬でも、夢の中では非常に長い時を過ごしていたようなことがある。
 瀬田は思案深い人間で、自分の置かれている状況を常に把握しながら頭を回転させている。考えられる限り、幅広く物事を解釈するタイプだ。
 夢の中で「これは夢の中の出来事なのだ」と、考えるシーンは何度も体験しているが、同じ夢の中で、そう何度も繰り返し考えるシーンは少ない。何度も考える前に、その夢が覚めてしまうことが多いからだ。
 もしこれが夢なら、それが夢であることを何処までも覆い隠そうとする新手の夢かもしれない……と、瀬田はまたもや夢の中で考えたことになる。
 夢の中で、これほどまでに思考回路が使えるものだろうか。または、思考シーンが多い夢なのか。瀬田は思考回路に関わる妙な夢を見ているのだと思うことにした。夢を見ていることを思い続ける夢なのだ……と。しかし、それもまた夢の中での解釈で、これは何処まで行っても、きりのない夢なのだ。
 瀬田はどうしてこんな悪夢を見るのだろうかと、その悪夢を見ながら、また考えた。その考えていることさえ夢の範囲内にあるかもしれないのだが、それはもう問わないことにした。たとえそれが釈然としても現実の世界には持ち帰れない答えなのだ。なぜなら、夢が覚めると、その夢さえ忘れていることもある。夢の中で宝箱を発見しても、そのお宝は持ち帰れない。
 瀬田は一つだけ気付いたことがある。それは、この夢を見ている自分自身のキャラクタが非常にリアルな反応を示していることだ。
 
   ★
 
「しかし、小学生がこの夜中、どうして都心へ行くのかな」
 少年は答えない。
 野田少年は塾でも答えられないと沈黙した。単なる性格で、それ以上の含みはないことを瀬田は知っている。
「僕と同じかもしれないな」
「えっ」
「どうして電車に乗ったかまで、覚えてるかい」
「駅まで歩いていました。その前は……」
「ここにいる人達は?」
「知りません」
「宇喜多駅で降りて、何処へ行くのかな?」
 少年は、やはり答えられない。
「先生は、どうしてこの電車に」
「ドアが開いていたから乗っただけさ。石田駅で降りようとしたが、停まってくれなかった。次の手塚駅でも。あそこは終点のはずだろ」
「僕は死んでいるのかもしれません」
 瀬田は考えたくない解答を耳にしてしまった。
「だって、ミステリーツアーに行くような人達とは思えないでしょ」
 瀬田は改めて乗客を見渡した。お年寄りが多い。
「ではこの電車は」
「僕はもう覚悟が出来ています。やっぱり僕は死んだのです」
「この電車は死者の魂を運んでいるわけか」
「いつ死んだのか、分かりませんが、きっと二回目の手術の後、死んだのだと思います」
 瀬田は他の乗客に、そのことを聞くのが怖かった。
「でも、すっきりしました。悪かった心臓、今はどうもありません。駅まで一人で歩けたし、階段も元気で上れたし」
「宇喜多駅に何がある?」
「あの駅はターミナルでしょ」
「確かに地下鉄やJRに乗り換えられるし、空港行きのモノレールも出ている。しかしそれは生きている人間の乗り物だ。それにこの夜中、夜行列車さえ走っていないだろう」
「僕はこの切符を持って駅への道を歩いてました。そこへ行くしかないのです」
 瀬田は自分が死んだことを受け入れていない。なぜなら、死んだ記憶がないからだ。
 夢は理不尽で荒唐無稽で、昼間の常識など通用しない世界。
 
   ★
 
 電車は深夜の都心部に到着した。構内の蛍光灯は煌々と灯っている。時間的には考えれない光景だ。
「大晦日みたい」
 野田少年が無邪気に言う。
 この駅は三つの路線が入っており、九番線からなる大きな駅だ。昼間と同じようにホームに電車が出入りし、人々が乗り降りしている。
 瀬田は諦めることにした。目の前の、この現実が如何に不可解なものであろうと、自分に意志があり、少なくとも動くことが出来る。左へ行きたければ、左へ行ける。右へも行けるし、振り返ることも出来る。誰かの意志で動かされているわけではないのだ。
「どうする?」
 野田少年も考えているようだ。
「切符はここまでだし……」
「出るか?」
「うん」
 その電車に乗り合わせた人々は改札口へ向かっている。その流れに乗るのが自然なように思えた。
 しかし、瀬田は切符を持っていない。乗客の流れに乗りたくても、自動改札を通れない。
「どうしたの?」
 瀬田が立ち止まったので、野田少年が尋ねる。
「コースが違うかもしれないな」
「コースって?」
「切符有りと無しのコースさ」
「一緒に行こうよ」
「通れないと思う」
「あそこに駅員がいる改札があるよ」
 その改札を通過している人達がいた。
 少年は自動改札を通り抜けた。
 瀬田は駅員のいる改札前に並んだが、みんな切符を渡していた。持っているのだ。有人改札を通過する客は老人が多かった。
 瀬田は差し出す切符がないことを、駅員に伝えた。
 駅員は首を横に振った。
「どうすれば?」
「精算機へ行ってください」
 瀬田は精算機へ向かう。改札を出た野田少年が心配そうに見つめている。
 精算機は稼働していなかった。改札口の駅員は知らなかったのだろうか。
 瀬田は駅長室へ向かった。そこで精算してもらおうと思ったのだ。
 いつもはドアが開いているはずの駅長室は締まっていた。
「先生」
 野田少年が手招きした。
 瀬田は改札機の前で、野田少年と向かい合った。
「乗り越えたら」
 素朴な発想だった。
「早く」
 瀬田は改札機の上に飛び乗り、そのまま平行棒を渡るような感じで、飛び越えた。
 瀬田は着地に成功した。誰もとがめる者はいなかった。改札を通過する人々は、いずれも物静かで、俯き加減で、他人のことに頭が回らない風だった。
 
   ★
 
 瀬田は都心部の駅に降りたことになるのだが、時間帯が問題だった。この街は不夜城ではない。深夜のターミナルは寝静まっていて当然だ。
 瀬田は次に何をすればよいのかが分からない。それは野田少年も同じことだ。目的地は、この駅なのだが、その目的地で何をやるのかの目的が真っ白だ。取り敢えず辿り着いただけのことである。
 しかし、自然と流れがあるようで、その流れはある方向を示していた。その方向に何があるのかまでは分からないが、流れに乗り、同じようについて行くのが自然なように思えた。
 瀬田も野田少年も、その流れに乗ることにした。
 他の人も似たような頭だろう。思考停止ではなく、何も情報がないのだ。そして、場の雰囲気に乗る以外の判断は思い付きにくい。
 彼らは駅舎の階段や、エスカレータで降りた。
 ちょっとした広場に出た。
 そこは待ち合わせやイベントで賑わう場所だ。他の通路と違い、そこだけは面積的にふくらみがある。
 広場といっても建物の中。巨大なターミナルビルの一階にすぎない。
 流れは広場の裏側へと続いている。その方向には乗り換えるべき鉄道の駅はない。
 瀬田達は巨大な本屋の横の通路を移動してゆく。
 この先にある交通機関を思い出した。
「高速バス」
「えっ?」
「この先に高速バスの乗り場がある」
「あ、そうか」
「何が、そうかだ?」
「僕も、そうじゃないかと、思ったから」
「乗ったことある?」
「深夜バスで遊びに行ったことがある」
「一人でか?」
「家族と」
 本屋の裏側に回り込むと、高速バスターミナルに人が溜まっていた。
「やはりそうか」
 数台のバスが列を作り、停まっている。
「乗車券を持ってるか?」
「ないよ」
「これで、僕と同じになったな」
「うん」
 瀬田は待合室を覗くが、満員だ。空いているベンチはない。
「何処行きのバスに乗ればいいのかな?」
 野田少年は運行表を見ている。
 電子掲示板に(長谷川方面)と表示されている。その下の文字も長谷川だ。十五分間隔で発車するようだ。
「長谷川か」
「何処ですか?」
「分からない」
 瀬田は路線図を見るが、地方都市名が並んでいる中に、長谷川はなかった。長谷川という街があるのかもしれないが、高速バスの行き先としては、分かりにくい地名だ。
「地名など、どうでもいいのかもしれないな」
「どうして?」
「選択の余地がないじゃないか」
 しかし、電子掲示板だけは、長谷川行きを表示させている。路線図の行き先一覧にも書かれていない行き先だ。
 長谷川行きのバスが一台発車した。空いたスペースに次のバスが停り、並んでいた人々が乗り込んだ。
 結局、その列に並び、来たバスに順々に乗っていくことになる。瀬田は決められた流れに乗ることになる。そこに瀬田の意志があるのだろうか。乗車を拒否することも出来る。バスターミナルから離れれば、バスに乗る必要はない。他へ行く自由は瀬田にはある。
 バスターミナルの入り口から瀬田は周囲を見渡した。
 人々がバスターミナルへ流れ込んで来る。あの駅から降りた人々が、こちらへ向かっている。まるで磁石に吸い寄せられるかのように……。
 瀬田は、都心部に出たときのことを思い出した。友人と待ち合わせ、喫茶店や飲み屋へ行った。買い物へ行った。いずれも自由な行動だが、行き先はあらかじめ決まっていた。ビルの地下に駐車場があっても、瀬田には行く必要がない。また、ビルの屋上へ出る用事もない。自分で決めているようで、決められたコースしか行っていない。
 深夜、高速バスに乗る必要は瀬田には何もない。しかも長谷川という地名さえ知らない。長谷川へ行く目的さえない。分かっているのは、バスに乗ることだけ。
 取り敢えず乗ることが目的になりつつある。それ以外の行動は、ふさわしくなく、不自然なように思われた。
 瀬田はバスターミナル沿いに喫茶店があるのを発見した。ターミナル施設の一部かと思っていたが、別の棟だった。その喫茶店へ何度か入った記憶がある。
「一服するか」
「乗らないの」
「タイミングをちょっと外したい」
 
   ★
 
 店内は若い人が多かった。瀬田は野田少年と小さなテーブルについた。他の客は全て一人客だ。瀬田はそのことを多少気にしていた。その理由を考えるのが怖かった。
「ここは何処なんだ」
 瀬田は再びその疑問と向き合いたくなった。考えないわけにはいかない。考えるなと言うほうが無理だ。そして、どっぷりとこの状態を受け入れてはいない自分を見て、安堵する。まだ自分には距離を置いて考える頭が残っていると。
 喫茶店の窓からバス乗り場はよく見えた。バスは三台ほど繋がって停車している。待合室付近の人数を考えると、全員が乗れそうだ。最後に並んでいるバスに人が乗り込むのを見てからでも間に合う。
「長谷川で思い出すことはないか」
 少年に聞く。
 野田少年は、いつものように答えが分からないときは黙っている。
「聞いてみたらどうです。先生」
 そのとき、ウェイターがコーヒーを運んできた。
「長谷川ですか」
「あのバスの行き先だ」
「長谷寺ではないしな」
「川だ」
「バスはバス、喫茶店は喫茶店ですからね。バスのことは知らないです」
「聞いていいか」
「さっきから、聞いてるじゃないですか」
「手を止めさせて、悪いみたいで」
「もう、客は来ないですから、いいですよ」
「なぜ分かる」
「電車はもう終わっているから、降りてこないのです」
「基本的な質問だが、君は誰だ」
「喫茶店の店員ですよ。見た通りです」
「だから、基本的な質問だと言ったのだ」
「ここのお客さん、あまり喋らないですよ。あなたは他の客とは違いますねえ。子供も連れているし」
「僕の子供じゃない」
「てっきり、家族で災難にあったのかと、奥さん一人残して」
「先生!」
 野田少年も覚悟したようだ。
「つまり、僕らは、あれか」
「お気の毒ですね」
「あのバスで三途の川を渡るのか」
「そんな川なんてないですよ」
「僕は死んだ夢を見ているのだろ?」
 ウェイターは答えない。
「店長がしかめっ面で、こっちを見てます。じゃあ、これで」
 ウェイターは去った。
 瀬田は立ち上がった。
「先生」
「戻る」
「でも、電車はもうないと」
「覚えがない」
「え?」
「死んだ覚えはない」
「僕もですよ」
「君は、きっと昏睡状態で、そのまま逝ったんだ。死んだときの記憶がないんだ」
「あの電車、停まったのは、先生を待っていたんです」
「僕を拾い上げたのか?」
「だと思います」
「じゃあ、僕は何処で死んだのだ」
「さあ」
 瀬田は自転車の前輪が曲がっているのを思い出した。
「轢かれたのか」
 瀬田は頭を抱えた。後頭部に何か抵抗がある。
「見てくれ」
 野田少年は瀬田の後ろに回り、後頭部の髪の毛をかき分けた。
「赤くなってる」
「それだけか、たったそれだけか」
「僕の心臓、何ともないです。戻ってるのかも」
「では、なぜ僕には切符がないと思う?」
「ちょうど通りがかったので、そのまま乗せたのでは」
「あの電車は、ゴミ収集車か」
「先生、静かにしてください。みんな静かですよ」
 瀬田は、ここにあるものは実際には実体がないように思えた。あの世へ続く道や、あの世さえ、何らかのイメージなのだ。そのイメージは瀬田に分かりやすい形をとっているだけ。
 実際にはバスターミナルもバスも存在せず、何らかの移動だけが行われているのだろう。その移動も、距離的な移動ではないのかもしれない。馬車が走る時代に生きておれば、馬車であの世へ行くことになるだろう。
 そしてバスも馬車も、実際には存在などしない。存在しないバスに乗れるのは、瀬田も肉体として、存在していないためだ。
「先生、最後のバスに、みんな乗ってるよ」
 店内の客が居なくなっていた。
 瀬田はレジの前に立った。店員は手を横に振った。
「乗るしかないでしょ」と少年。
「乗るしかないか」瀬田は決心が付いたようだ。自分は本当には死んでなく、蘇生する可能性を考えていた。車と接触し、瀬田は病院に運ばれ、死線を彷徨っている最中で、どこかで、すっと病室へ戻れるような気がした。
 しかし、バスに乗ろうとしたとき、誰も瀬田を呼び止める者はいなかった。
 
   ★
 
「先生先生」
 瀬田克彦は野田少年の声を聞いた。
「もう、終わりですよ」
「……」
「答案用紙も集めました。もう帰っていいですか?」
 そこが塾の教室であることを、瀬田はすぐに理解した。
 瀬田の寝起き顔を生徒達は笑って見ている。
「では、本日の模擬試験は、これで終わります」
「起立! 礼!」
 野田少年が、号令をかけた。
 生徒達は、あっという間に教室から立ち去った。
「採点をすませてから、帰ろう」
 と、瀬田は呟いた。
 

   了
 

 

 


          2002年3月31日
 

 

 

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