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ライカでさよなら

川崎ゆきお



 作田耕作。
 名前から察すれば農家の人にしか見えないが、世界的なフォトグラファーである。
 しかし、寄る年波には勝てず、寄られながら土俵際まで来てしまった。
 だが、カメラマンを廃業したわけではない。まだ、仕事の依頼はあり、細々ながら撮影している。
 若い頃から壮年にかけ、世界中の戦場を写して来た。もし死ぬのなら戦場になるだろうと思っていたのだが、生き延びた。
 新聞社を退社してから、作田の写真は評価された。こっそり持ち帰ったライカで写した写真を自費出版したのが幸いした。
 その後、新聞社のカメラマンではなく、写真家として海外で活躍した。
 ある年、もう海の向こうの危険な場所へは行けないことを自覚した。走れなくなっていたからだ。
 仕事は減ったが、食べることには不自由していない。このまま引退しても、生活が苦しくなることはないが、身体が苦しくなることを恐れた。
 身体はどこも悪くなく、持ち病もなかった。年をとっているだけなのだ。
   ★
 作田耕作は今日も愛用のライカを首にぶら下げ、駅前までの道を写した。
 撮影地が狭くなっていた。
 退職した新聞社の夕刊紙に、月に一度フォトエッセイを連載している。仕事はこれだけだが、写真家としての地位は保っていた。
 まだ作田耕作は写真を写している……と業界での評価も高い。
 駅までは五分の距離だったが、最近は七分はかかる。駅に出ても用事はない。七分かかろうが十分かかろうが、問題は何もなかった。
 線路沿いに出ると、自転車が走って来た。
 作田はライカを構えた。
 自転車を正面から写す気力はもうなかった。写す側と写される側の緊迫感に耐えられなくなっていたのだ。
 機銃を持ち、走り来るゲリラ兵を写し撮ったのは、遥か昔だ。同じカメラが今も胸にある。
 作田はそのライカで、走り去る自転車の後ろ姿をそっと写した。
 真正面の作田と言われた男が、後ろ姿しか撮れなくなっていた。
 撮影地も家から徒歩五分の距離に狭まり、たまに立ち止まり、カチリと写すだけ。
 ピントを合わすのも面倒になり、広角レンズで深く絞り、そこで固定させている。シャッターは二五〇分の一秒以外は使わない。距離は三メートル弱に合わせたまま、しばらく動かしていない。この状態なら、ボケた写真には滅多にならない。
 作田にとり、駅までの道は戦場と同じなのだ。いつ何が来てもピントを外さないよう、セットしている。
   ★
 ある秋日和、作田はいつものように駅へ向かう道を歩いていた。何となく体調が優れないのは、前日雨が降り、そして濡れ、風邪を引いたため。
 しかし、駅と家との往復は日課であり、雨が降ろうと雪が降ろうと休んだことはない。
 自分はここが最後の戦地になると覚悟を決めていた。この戦場から離脱することは、写真家としての終わりを意味していた。
   ★
 まさか、その被写体に遭うとは思ってもみなかった。二百年前に戻された感じだった。
 そういうセオリーがまだ残っているのか……と感動したほどだ。それと同時に、それも悪くはないか……と、受け取った。
 その被写体は、路地の入り口に立っていた。杖をついた老人だが背筋はしゃんと伸びていた。そして決定的だったのは着物を着ていたことだ。
 作田は近くの病院から抜け出た患者だと思った。が、その着物は随分と薄汚れており、寝間着ではないことが分かった。かなり幅広の帯を締めていることからも、本物の着流し姿の老人であることがはっきりした。
 作田は、これが噂の老人かと悟ったが、現実に見るのは初めてだった。
 老人も路地の入り口で、じっと作田を見ていた。
 作田は目を合わせたくなかったが、老人は無視されまいと、かっかっと何度も目を開き直している。その仕草は何処か鶏の目に似ていた。
 そして老人は手招きした。こちらへ来いと呼んでいる。
 作田はカメラマンとしての気合が入った。ピントは三メートルに固定しているので、手前から遠方までピントは合う。
 しかし路地の入り口は薄暗く、このままでは少し露出不足だ。現像で誤魔化せないことはないが、適性露出で写したい。それには絞りを二つ開ける必要がある。
 作田は何年かぶりにレンズの絞り輪をかくんかくんと二つ回した。
 絞りを開けたのでピントが浅くなった。三メートルまで近寄り、そこで写すしかない。
 作田は、ゆっくりと近付いた。
 胸元のカメラを少し前に突き出す。首にかかっているストラップがピンと張った。
 いつものようにノーファインダーで、レンズを老人に向けた。広角レンズは確実に老人をフレーム内に捕らえているはずだ。
 作田は欲を出した。出来ればピタリと老人の目にピントを合わせたいと。
 そしてカメラを持ち上げ、普通に構えた。
 距離計の二重像が老人を捕らえた。やはりずれている。作田は距離を合わせ直そうと、レンズを回した。
 老人の目がずれている。それをピタリと合致させれば、ピントは合う。
 作田は、リングレバーを何度も動かした。しかし、像は重ならないのだ。
 老人は再び手招きし、近付いて来た。ピントはさらに狂った。
 精確に合わせるより、いち早くシャッターを切る方が好ましいことぐらい、ベテランの作田には分かっていたのだが、全紙に延ばしたことを考えてしまうのだ。
 年はとってもきっちりピントを合わせている……と言われたかった。それに匹敵する被写体であり、写せば大変な騒ぎになるだろう。それだけに、下手な写し方は出来ないのだ。
 老人は眉間に皺を寄せ、至近距離まで寄って来た。手を伸ばせば触れる距離だ。
 今度は近すぎて、最短撮影距離に合わせても二重像は引っ付かなかった。
 作田は急いで数歩後退した。
 作田は天地がひっくりかえるほどの衝撃を受けた。
 車もスピードを出し過ぎていた。
 救急車がけたたましい音を立ててやって来た。
 作田は、その音を聞きながら、老人に手を引かれ、路地の中を歩いていた。
 懐かしいような駄菓子屋や、蒸し芋屋の前を通り過ぎた。
 丸坊主の男の子達が鬼ごっこをしている。
 オカッパ髪の女の子達は縄跳びをしている。
 作田は胸元を手で弄り、続いて首の後ろを触った。ライカを落としたことに気付いた。
 作田は立ち止まった。
 老人はゆっくりと振り返り、作田に目で合図した。
 作田は頷き、再び歩きだした。
   ★
 写真家作田耕作の最後の一枚と題した写真が夕刊紙に掲載された。
 路地の入り口でポツンと立ち、にっこり笑っている作田耕作の全身像だった。
 セルフタイマーによるセルフポートレート、と記されている。
 
   了
 
 
 


          2003年10月8日
 

 

 

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