川崎フォトエッセイ  その111  走る    ←前 次→  HOME


 子供の頃のように、走らなくなった。スポーツでもやっておればその機会があるかもしれないが、その種のことをやっていないので、作為的に走ることがますます減った。
 最後に走ったのは、電車がすぐそこに来ていたので、慌てて走った程度だ。これも間に合う可能性があるから走ったのである。やはり走る必然性がないと、走る機会などない。
 しかし、歩く距離は子供の頃より長くなった。取材とかで知らない街に入り込んで、くたくたになるまで歩いている。これもそんな仕事がなければ、歩かないだろう。
 僕の日常の中では「走る」行為は、かなりパニック状態の時に限られるようだ。
 そのかわり、僕はよく「走る」という言葉を使う。「猟奇に走る」とかだ。これは足で走るのではなく、頭で走るのだ。または人格的に走ると言ってもいい。物理的な疾走感よりも、精神的な疾走感のほうが、体重の乗せ方は大きいのは言うまでもない。精神的に、妙な走り方をすると、精神疲労も大きい。