望遠レンズで切り取ると、世界が観念的になる。そこに写っているものは、観念的ではないのだが、欲しい箇所だけを切る取るため、観念的選択をしてしまう。
観念とか主観とかの言葉は、あまりいいふうには理解されない。ある人が、そう思えば、それが存在する世界で、そう思えない人が見ると、存在しないことになる。
主観に対しての客観という言葉はあるが、これはちょっと違うようだ。「主観」も「客観」も言葉である。同じ言葉でも「机」や「椅子」のように、何を差しているのかが単純で、そのことに対して、特にトラブらないはずだが、「考え」とか「想い」とかが加わる世界では「机」を扱うようなわけにはいかない。
「物」に「事」が加わる物事は、動員するデータも多いし、関連するアクセス箇所も多様になるため、個人差が出てしまう。「主観の相違」というやつで、これが嫌になると、人には語ることのない観念的な領域で、主観を満喫するかしないのだ。