思案は、文字通りをベタに言えば、思い案じ、迷っているという感じである。「ここが思案のしどころ」とか。
思案する、つまり、考え込んで立ち止まった状態は、あまり芳しくないが、楽しい思案に耽ることもある。
「思想家」は普遍的なレベルを土壌とするが「思案家」は超個人的なレベルにいる。あまりにもローカルすぎる土壌であり、また情感渦巻く世界での展開となるため、一個人の問題でしかない。
その意味で僕らは日常的に、そして慢性的に「思案家」なのである。思い迷うことが日常些事として、いくらでも発生し、その都度何らかの判定を下していく。
その思案結果はレポート化されない。他の人が読んでも単なる日記のようなものなので、覗き見するような感じの興味でしかない。
ただ、ネタは違えども、同じパターンの思案があり、そこだけは普遍性がある。