川崎フォトエッセイ  その2  木造家屋    ←前 次→    ホーム


 この前の震災で、たくさんの木造家屋が消えてしまった。阪神間の路地裏を探検したいと思いながら、行く機会を逸し続けている。

 まあ、地元伊丹市近辺にも古い建物が残っているのだから、遠いところまで行くことはない。と、思っていたのだが、先日近所の古い街並みを歩いてみると、古い木造家屋が一気に減っていた。伊丹も被災地だったことに改めて気づいた。

 伊丹も震災以前から、古い木造家屋は減り続けていたので、いずれ消えゆく運命だったのだ。

 僕が愛する古い街並みは、それほど昔の建物ではない。鎌倉時代の寺や江戸時代の酒蔵となると、感情移入の範囲外になる。

 感情移入できる景観は、一度入ってきた感情のほうが効果的だ。その意味で、僕の場合、やはり子供時代の景観となる。

 懐かしさは郷愁の念で、単なる感傷なのだが、単なるが故に感情を乗せやすい。感情が乗ると、景色も濃くなる。

 僕は子供の頃見た風景ばかり追いかけ、大人になってから見た風景など、見向きもしない。子供の頃は、理解しないで見ていたので、謎として残っているのだ。その謎は、実際には建築的な謎ではない。塀がどうの、壁がどうのではなく、そこで暮らしていた状態のようなものが謎なのだ。景色は単なる引き金に過ぎない。

 路地は消え、そこにマンションが建つ。マンションで産まれた子供は、僕が木造の家を懐かしむように、コンクリートの階段や踊り場を懐かしむだろう。階を間違えて、現実が吹っ飛んでしまった幼児もいるに違いない。

 レトロという言葉は、抽象化された懐かしさである。それだけに恨み辛みがない懐かしさだ。レトロブームは、それだけ「懐かしがれる」体験が少なくなったことを意味しているように思える。