川崎フォトエッセイ  その3  煙草屋    ←前 次→    ホーム


 最近煙草屋さんで、煙草を買うことが少なくなった。煙草の自販機が近所に何カ所もあるため、自販機で買うのが日常になったからだ。

 まあ、煙草しか売っていない煙草屋さんも少なくなった。パン屋さんとかをやりながら、煙草も売っている店がほとんどだ。

 あまり客の来ない店では「こんにちは」を何度も言わないと、なかなか店の人が出てこない。

 店の人も、客も滅多に来ないので、奧でテレビを見ていたり、用事をしている。煙草一つ買うだけで、呼び出すのも気が引ける。

 しかし、僕はこの間合いが嫌いではない。自販機で買うときには省略される雑多な情報が付いてくるからだ。

 例えば古い店屋さんでも、今この場所で営業していることにかわりはないため、同じ時を生きている。あくまでも現在なのだ。

 自販機で買うのも現在だが、店の人がなかなか出てこない煙草屋さんで買うのも現在である。

 ではこの違いは何だろう。ずれていても通用するのだ。そのずれは、新しくできた店でも刻一刻と進行している。

 かなり古くても通用するあたりに、幅の広さのようなものを感じてしまう。待ち時間の間、未だに残っている古い商品や備品などを観察していると、もっと待っていたいほどだ。

 自販機にコインを入れ、即座に反応して煙草が出てこないとイライラするくせに、店の人が出てくるのを待つ時間は、それほど苦にならない。

 これはやはり事情を飲み込んだ上で待つためだろう。

 出てきた店番の老婆(おそらく)の顔を見るのも楽しい。顔の皺。手の皺。声の色。これはいくら見ていても飽きない。飽きさせないことが「商い」の基本、と、冗談を言ってしまいたくなる。